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妻鳥純子

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「ドイツ歌曲への誘い」「愛の魔法、すみれ~クラーラ・シューマン」Vol.15

  • 妻鳥 純子
  • 2019年11月20日
  • 読了時間: 18分

2019年1月11日、「愛の魔法、すみれ~クラーラ・シューマン」Vol.15 の

「クラーラ・シューマンとその周辺」真鍋和年 講義を載せます。

2019年1月11日 「ドイツ歌曲への誘い」Vol.15 

「愛の魔法、すみれ~クラーラ・シューマン」 真鍋和年講義

「クラーラ・シューマンとその周辺」真鍋和年講義

皆さん、明けましておめでとうございます。旧年中は「妻鳥純子音楽サロン」を支えていただきまして、有難うございます。お陰様で今回15回目という節目を迎えることが出来ました。今回は、クラーラ・シューマンを取り上げたいと思います。クラーラ・シューマン、色々なことで皆様ご存知だと思うのですが、19世紀の最高のピアニストの一人です。フランツ・リストであるとかショパンと並び称されようなピアニストでした。クラーラは1840年、作曲家のローベルト・シューマンと結婚をします。これはクラーラのお父さんのフリードリヒ・ヴィークと、ピアノの先生なんですけれども、骨肉相争う大変な裁判の果てに、ローベルトと結ばれる、そういう劇的な経験をしたのですね。

今日はクラーラ・シューマン、ピアニストであり、大作曲家の妻であり、7人の子を育てた母であり、ご自身も相当な作曲家です、そのクラーラの曲を皆さんに聴いていただきたいと思います。

めったにコンサートで演奏されることはないので、こういう機会でないとなかなか聴けないと思います。妻鳥先生は、多分、若い頃からクラーラの勉強をしておりまして、以前、東京藝大の旧奏楽堂でのリサイタルでも取り上げておられます。そのクラーラについて妻鳥先生に歌っていただこうという、そういう趣向でございます。

まず、「6つの歌曲」から始めます。これはクラーラが、ローベルト・シューマンと結婚した年に作曲に着手した20歳、21歳頃の作品です。

それから、今日は趣向を凝らしまして、伴奏ピアニストの高橋友美先生にクラーラの作品6、若い頃の作品ですが「ポロネーズ」を演奏していただきます。この「ポロネーズ」はクラーラとして、かなりの自信作でした。ショパンとは度々交流があったのですが、この曲はショパンの前で弾いて聴かせたということです。

その後、リストが訪ねてきた時に、フランツ・リストです、この楽譜を見て初見で弾いてみせた、と。その華麗な演奏に、クラーラは、これは敵わないなぁ…そんな感じをその時は持ったようです。その曲をピアノ演奏していただきます。

その後「ユクンデより6つの歌曲」という、これはクラーラの34歳頃の時の作品です。ヘルマン・ロレットという人の詩にクラーラが作曲した、そういう曲です。

その後に、「ローレライ」、「すみれ」です。「ローレライ」、詩はハインリヒ・ハイネの詩です。皆さんがご存知のローレライは、ジルヒャーという人が作曲して、近藤朔風の「なじかは知らねど、心わびて…・・・」という名訳の歌詩がついたものです。そのローレライの詩にクラーラも曲をつけています。

クラーラは、パリに演奏旅行をした時に、亡命していたハインリヒ・ハイネと出会うことがありましたが、ハイネとクラーラは面識がありました。

「すみれ」、これはゲーテの詩です。モーツァルトの名曲がありますが、クラーラもこの詩に触発されて曲をつけております。クラーラは、モーツァルトの「すみれ」を知らなかったとローベルトに言ったとか、このエピソードについては、今日のプログラムノートの中に妻鳥先生も書いてくれておりますので、是非、お読みになってください。

クラーラ・シューマンですが、一つの評価としては、同時代つまり19世紀の後半のヨーロッパ、特に西ヨーロッパの音楽文化に余人の追随を許さぬ影響を与えた――と。

作曲であり、ピアノ演奏であり、ローベルト・シューマンという大作曲家を世に出した、という功績ですね。クラーラはそういう多面性を持っているんですけども、先ずは女流ピアニストとして世に出ます。

小さい時から天才少女と言われた人ですが、お父さんが高名なピアノの教師ですので、早くからその猛特訓を受けます。クラーラは、やや言語の発達が遅れていたのですが、言葉の前に文字を覚えるように楽譜と楽譜に対応する指使いは身につけていたという、そんな子供だったそうです。お父さんは、そのクラーラの才能に着目しまして、第2のモーツァルトにしよう、ということで、9歳でデビュー、ライプツィヒ、ゲヴァントハウスオーケストラと協演します。旧東ドイツ、ザクセン州にある名門オーケストラです。11歳の頃からはプロのピアニストとしてお父さんと一緒に、ドイツの各地、あるいはフランスへ演奏旅行をいたします。結局、11歳から72歳迄長期にわたりピアニストとして演奏活動に従事します。

 ローベルト・シューマンが亡くなってからも子育てをしながら、35年もの間コンサートを続けます。子どもの頃は、お父さんがマネジメントをしていましたが、後年はクラーラ自身が全てコンサートの会場の交渉であるとか、新聞雑誌への広告でありますとか、あるいは共演する演奏家との交渉ですとか、プログラムとか全てやったのだそうです。そうしたピアニストという面がありますが、一方では女流作曲家でもありました。

特に若い頃はかなり作曲をいたします。37歳の時にローベルトと死に別れますが、それ以降は子育てのために演奏会に明け暮れて、あまり作曲はしていないようです。彼女自身はピアノ曲、それからリートが得意でした。シューマンもピアノとリートが得意なんですが、クラーラもそうですね。ピアノコンチェルトとかピアノ3重奏曲も作っているのですが、やはりピアノ曲、リートにウェイトがあったようです。

ローベルト・シューマンの妻として14年間結婚生活が続くのですが、献身的にシューマンを支えます。ローベルト・シューマンは、やや精神的にも不安定なところがありまして、無くなる2年位前です、ライン川に身を投げて、助けられるんですけれども、精神病院に収容されてそこで亡くなる。そのシューマンを支えた、という人です。

特に19世紀ロマン派の時代、シューマンですとか、メンデルスゾーンですとか、あるいはリストとかショパンとか、そういった人達との交流の中で演奏活動をするのですが、クラーラは、自分のコンサートでは積極的にローベルトの曲を取り上げ紹介しています。

「交響的練習曲(シンフォニック・エチュード)」、「アラベスク」ですとか、「謝肉祭」、あるいは「子供の情景」とか、そういった曲を必ずプログラムに入れていたようです。そのことがシューマンの曲を世に広めるのに効果がありました。一方では、その頃敬遠されて取り上げられなかったベートーヴェンを積極的に取り上げます。特に、「Appasionata (熱情)」、名曲です、あるいは「月光」でありますとか、「ワルトシュタイン」とか「テンペスト」、あるいは「ハンマークラヴィア」、そういったベートーヴェンを積極的に取り上げます。ベートーヴェンで始まって、最後はローベルト・シューマンで終わる、そういう構成を良くとっていたようですね。

それからバッハについても、当時殆ど忘れられていた作曲家なのですけれども、クラーラは積極的に取り上げます。特に、ローベルトと一緒に「平均律クラヴィア」などバッハ研究に打ち込みました。また、メンデルスゾーンもバッハに着眼してるんですが、そういう人達と一緒にバッハを世に広めた、復活させた、そういう功績があります。ピアノ指導者としても業績を残しています。ずっと後になってフランクフルトのHoch音楽院の教授を勤めますが、弟子の養成にも積極的でした。クラーラの人脈はアメリカのジュリアード音楽院に受継がれているそうです。

クラーラがどういう演奏をしていたかという録音は残っていませんが、彼女の弟子でジュリアードに行った人たちの録音はあるようでして、そこからクラーラの演奏を窺うことはできるかも知れません。因みに録音は、ブラームスが自身でピアノを弾いた録音が、最古の録音として残っているそうですね。エジソンの発明した蝋管シリンダーの蓄音機で録音してます。

家庭においてはクラーラは子育てに大変苦労をします。ローベルトが亡くなってから2歳から15歳、7人の子供を女手一つで育てます。

クラーラはドイツにおいては国民的な人気が高くて、EU に合流する前の最後の100マルク紙幣はクラーラの肖像でした。また、西ドイツ、東ドイツでそれぞれ切手にもなっております。そういうクラーラ・シューマンです。

これは、小さい時にお父さんが代筆して始めたのですが、晩年まで日記をつけておりましたので、いろんなことがクラーラについては分っておりますし、かなり手紙を書く人で、多い時は1日に14通も書いたということですが、ブラームスとの文通も800通ほど残っております。あるいは、フリードリヒ・リストというドイツの高名な経済学者、ドイツの統一市場、統一された国民国家を主張した論客です。友人の少ないクラーラは、そのお嬢さんと特に親しくて、エミーリエ・リストというんですが、300通ほどの手紙を残しております。それによりその頃のクラーラの想いがよく分ります。最初の話はこのくらいで、演奏に入っていただきましょうか。

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朗読 :真鍋ひろ子

アルト:妻鳥純子

ピアノ:高橋友美

6つの歌曲         作品13      Sechs Lieder Op.13

1.私は暗い夢の中にいた           1. Ich stand in dunklen Träumen

    ハインリヒ・ハイネ                 Heinrich Heine

2.彼らはたがいに愛し合っていたのに      2. Sie liebten sich beide

     ハインリヒ・ハイネ                 Heinrich Heine

3.愛の魔法                  3. Liebeszauber

    エマヌエル・ガイベル   Emanuel Geibel

4.月が静かにのぼる              4. Der Mond kommt still gegangen

      エマヌエル・ガイベル             Emanuel Geibel    

5.私はあなたの眼の中に            5. Ich hab‘ in deinem Auge

フリートリヒ・リュッケルト            Friedrich Rückert                 

6.ひっそりとした蓮の花            6. Die stille Lotosblume

     エマヌエル・ガイベル Emanuel Geibel

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  いかがでしたでしょうか。妻鳥先生、譜面台はいらないと言って拒否して…・(妻鳥:危ない、危ない!)ちゃんと全部ドイツ語で暗記して歌って下さいました。(妻鳥:違うのよ、色々やっておるのよ!!)

 日本語でもなかなか覚えられないのに、ドイツ語、大変だと思います。

 それで、少し時間がありますから話を続けたいと思います。

今の曲は、ハインリヒ・ハイネとエマヌエル・ガイベルという人、それからリュッケルトです。ハイネについては、以前にかなり詳しくお話しましたが、1797年、シューベルトと同じ年に生まれた人です。日本では恋愛詩人という風にして人気が高いのですが、一方では政治的な、急進主義的な詩人だったんですね。その当時はウィーン体制と言いますか、メッテルニヒの極めて反動的な支配体制です。検閲があったり、厳しい政治的弾圧が行われる体制の中にいられなくて、1830年、7月革命が起こった時にフランスに亡命する、ということです。そのハイネの詩。

それからエマヌエル・ガイベル、というのはあまり聞いたことがない、と思います。19世紀ドイツでは非常に力のあった詩人でした。リューベックというハンザ同盟都市に生まれた人ですが、「ドイツ詩壇の帝王」とまで言われた人なんだそうです。そのガイベル。

 それから最後のリュッケルトというのは、ベルリン大学の東洋学の教授だった人ですが、一方では詩人ということで、多くの作曲家がリュッケルトの詩に曲を付けております。

 クラーラ・シューマン、先程、録音が残っていないということを言いましたが、いろんな人の証言がありまして、そういったものを、モニカ・シュテークマンという人が書いた「クララ・シューマン」、これドイツのジャーナリストです。妻鳥先生からお借りして読んだものです。

それから、これはピート・エイステンという「シューマンの結婚、語られなかった真実」という本です。オランダの法律家が書いたものです。

それと、以前も紹介しましたが、原田光子さんの「真実なる女性、クララ・シューマン」、昭和16年に出たものの復刻版なんですけれども。

そういったものを読む限りでは、クラーラの演奏は大変豊かで色彩溢れる音色を持っていた。大変高貴で美しく詩的な演奏であった、とか。同じことですが、ポエジー溢れる表現力、響きの美しさがありました。きびきびしたテンポ、流れるようなテンポを好んだとも。          

シューマンも、若い頃クラーラの演奏を評価して、当時ベルフィーユという高名な女流ピアニストがいたのですが、そのベルフィーユは耳までしか届かないが、クラーラは聴く者の心まで浸透する――― と言ったそうです。ということで、クラーラの演奏の質、表現がどういうものであるかが伝わっています。

その奏法、どういう風に弾いていたかと言いますと、手を鍵盤に密着させたテクニックで、鍵盤は叩くよりも押すように演奏した、と。前屈みでピアノを弾きました、撫でるように鍵盤に触れましたと、同時代人がそう書き残しております。

クラーラ自身は、美しい作品、良い音楽を伝える使命が自分にはあるんだと考えていました。つまり、ある時期から作曲をあまりしなくなったのですが、それは夫ローベルト・シューマンの作品を演奏していたら、これはもう敵わないなぁ、という風にどうも思ったらしいんですね。

ローベルトはローベルトで、結婚に当たって「妻であることは、芸術家であるよりも崇高なものである。」とクラーラに言ったようです。

それに対してクラーラは、「妻として愛されることが一番です」と、「私はあなたの為に生き、あなたを幸せにします」などと健気なことを言ったようですね。

そういうクラーラは、どういう風な練習をしていたのかと言うと、これはお父さんのヴィークがしつけたんですが、長時間練習するより、正しい練習をしなさい―――と。1日3、4時間でよろしい、と常々言っていたようです。

それからローベルトもそうなんですが、バッハを研究しましてね、特に「平均律クラヴィ―ア曲集」を夫妻で研究しました。クラーラは毎日数時間バッハを弾きます、3声とか、4声のフーガを練習したそうです。

クラーラはライプツィヒという町で生まれます。ライプツィヒというのはザクセン王国、ザクセン選帝侯、神聖ローマ皇帝を選ぶ選挙権を持った有力な君主が治めておりました。そこに生まれます。ザクセンというのは、ブランデンブルグ州、これはベルリンを取り巻く州ですが、その南、アルプス寄りで、そのさらに南へ行くとチェコに入るというようなところです。北海とかバルト海からイタリアに至る縦のルートと、フランス、ドイツを通ってチェコ、さらにポーランド、ロシアに行く横のルートの結節点になっていて、たいへん商業で栄えた街、また毛織物工業が発達した町でした。

 そのライプツィヒには、古くから音楽的な伝統がありまして、ヨハン・セバスティアン・バッハは、ライプツィヒの有名な聖トーマス教会のカントールを務めましたし、ライプツィヒ市の音楽監督も務めまして、ライプツィヒで亡くなります。

それから、ヴァーグナーがライプツィヒで生まれています。さらにメンデルスゾーンがライプツィヒにやってきて、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラの指揮者になって、このオーケストラを格段に優秀なオーケストラに仕上げます。

そういった町にクラーラは生まれます。その町でお父さんのヴィークはピアノの先生をしていました。一方でピアノ商、あるいは楽譜を売ったり貸したりもするという、ライプツィヒでピアノ演奏会がある時は、クラーラのお父さんがピアノを貸すんですね。ですからライプツィヒ、この非常に栄えた町、音楽の都といった町でピアノ商をしますから、音楽に携わっている人は皆ここへ集まってくるという、そういう有利なところに居まして、そこで天才少女クラーラがヴィーク家の音楽サロンなどで才能を発揮する―――と。そんな風なことだったんです。そういう音楽の伝統がある町で育った…・・・と。

 ローベルト・シューマンは、そのライプツィヒから南に7km.位離れたところにツヴィッカウという町があります、今では、フォルクスワーゲンのポロという車を作ってる町ですが、

そこに生まれ、そこからライプツィヒ大学に進学します。音楽が大好きで、才能もあり、このヴィーク家に出入りをしていました。そのうちにクラーラのお父さんに弟子入りをして、そこへ住み込んでピアノを勉強することになります。それはローベルトが大学に入った時ですから、18歳ですが、クラーラは9歳です。

ローベルト・シューマンは1810年の生まれです。ショパンも1810年です。メンデルスゾーンが一つ上で1809年。それからヴァーグナーが1813年ですから、3つ下です。リストが1811年、一つ下です。こういうロマン派の大作曲家達が同時期に生まれています。フランスではベルリオーズがいますが、そういった人達がライプツィヒに集まる機会があり親密な交流をするんですね。

ライプツィヒから少し離れたところにザクセン王国の首都ドレスデンがあって、そこに王室のドレスデン歌劇場がある。そこにクラーラもローベルトも、あるいはヴァーグナーも教えを受けるドルンという作曲の師匠がいまして、そういった恵まれた音楽的環境がありました。前半の時間が大体終わりましたので、この辺りで約10分か15分休憩を取りたいと思います。後ろにコーヒーがございますので、どうぞ!召し上がってください。

           ―――――――― 休憩 ――――――――

 そろそろ後半人入りたいと思います。よろしいでしょうか。

後半、最初は高橋友美先生に、作品6のポロネーズを演奏していただきます。

よろしくお願いいたします。

ピアノ独奏  高橋友美

       ♪  音楽の夜会 作品6より抜粋   Soirees musicales Op.6

 ありがとうございます。いかがでしたか。・・・・・素晴らしい演奏でしたね。

こんな素晴らしい曲を作ったクラーラ・シューマンの作品の演奏機会があまり無い、というのもなんか寂しい気がします。今日はそういうこともあってクラーラ・シューマンのピアノ曲を聴いていただいたわけです。

クラーラ・シューマン、この時代ですから、まだ義務教育というのはないんですよね。基本的には親が教育する。王侯貴族だと家庭教師を揃えます。義務教育というのはドイツでは比較的早かったようでが、スタートは19世紀の半ば位です。これは国民国家、統一的な国づくりをするときに基礎になる産業振興が必要となり、そこで国民共通の基礎学力が求められるという訳です。

国民国家では、大体それまでの傭兵、兵隊を雇う段階から、国民の徴兵制に変わります。ナポレオン軍がそうだったんですが、そういう国民軍をつくるときに共通の教育がないとどうしようもない――― というところで国民教育、それを義務化するということになるんです。教育の専門家の西条高校の丹下教頭先生がいらっしゃるので、あまり教育のことについて私が偉そうなことを言うのもどうかと思いますが。(笑)

 そういう時代ですから、クラーラは学校は1年半位しか行っていないんです。学校へ行ってないから同じ年頃の友達がいなかったんですね。旅から旅へ演奏して回っていました。

クラーラ・ヴィーク、お父さんがフリードリヒ・ヴィーク、シューマンとの熱烈な恋愛、これは良く語られるところです。この「シューマンの結婚」という本もそれをテーマにしております。

ローベルト・シューマンは、クラーラのお父さんのフリードリヒ・ヴィークに弟子入りをして音楽を、ピアノを習う、ということで先生の家へ住み込んでまで修行をするんですね。するとよくあることですが、ある時期から恋愛関係ですね、クラーラは、素敵なお兄ちゃん、と思っていたのが、16、7歳ごろになってきて、そういう恋愛関係になってくるのですが、お父さんは結婚には大反対です。絶対許さん―― と。どんなにしてでも引き裂こう、と決意をします。

その理由というのは、手塩にかけて育てた娘が、コンサートピアニストとして、ウィーンでも大喝采、あるいはパリ、あるいはドイツ国内でも人気はうなぎ昇り。多分、ピアノの独奏会が成り立つようになったのが、このクラーラあたりが最初です。非常に人気があったんですね。大変美しい女性で、ピアノが上手で、聴衆の人気が高かった、そういう人です。 

だけども、お父さんは絶対に許さない―――。その根拠は、将来性のない人物との結婚は娘の将来を危険にさらすものである、というようなことをいうんですね。で、何がいかんのか、というと、ローベルトが大変気まぐれだ、自信過剰だ、とか忍耐力が無いとか、移り気だ、とか。金持ってないじゃないか――、経済的な展望がない――、ピアノの専門教育も受けていないじゃあないか、みたいなことでケチをつけるんですね。

この時代、結婚する時に親の許可が必要でした。ローベルトは、既に両親は亡くなっており、もう20歳代の後半になっていますが、クラーラは10代でして、特に父親の許可がないので結婚できない、ということだったんです。実際は、20歳の時に、結婚の許可を求める裁判を起こすのですが、これは、ローベルトが訴えを提起することはできないんで、クラーラが自分のお父さんを相手にそういう訴えを起こすわけです。これは非常に厳しい状況です。

お父さんは、ローベルトは経済力が無い、ということをしきりに言うんです。また、大酒飲みで、生活規律が無い、と主張するのですが、大酒飲みというところは、裁判では立証できなかったようでして、結局のところは許可が下りて、1840年に二人はめでたく結婚することになりました。

この1840年というのが、ローベルトにとっては「歌の年」という最も実り多い年になりました。殆ど彼が残したLied (歌曲)の多くはこの年に生まれました。歌が湧いてくる、そういう状況だったんですね。やはり結婚が非常に大きな創造の源泉になった―― というようなことでした。

その頃、クラーラもLied をいくつも作っております。クラーラは、ピアノに打ち込みましたが、声楽もきちっと勉強した人です。作曲が出来、声楽の勉強をし、ピアノができるというところで作ったのが、今日演奏していただくLied です。でそろそろ後半、妻鳥先生、お願いいたします。

        朗読   真鍋 ひろ子

        アルト  妻鳥 純子

        ピアノ  高橋 友美

「ユクンデ」より6つの歌曲 作品23      Sechs Lieder aus”Jucunde“ Op.23

       ヘルマン・ロレット詩 Vom Hermann Rollet

1.何を泣いているの、小さな花よ? 1. Was weinst du,Blümlein?

2.ある明るい朝に 2. An einem lichten Morgen

3.ここに、あそこにひめやかなささやきが 3. Geheimes Flüstern hier und dort

4.緑の丘に 4.Auf einem grünen Hügel

5.それは響こうとする日 5.Das ist ein Tag,der klingen mag

6.おお、喜びよ、喜びよ 6.O Lust, o Lust

• ローレライ ・ Lorelei

     ハインリヒ・ハイネ                Heinrich Heine

• すみれ                    ・ Das Veilchen

      J.W.v.ゲーテ            J.W.v.Goethe

      ・ アンコール  からたちの花  山田耕筰作曲 北原白秋詩

――――――――――    ――――――――

 ありがとうございました。時間が参りました。

次のご案内を差し上げたいと思います。次は、少し時間が空きますが、7月26日。東京から山岸茂人さんというピアニストをお招きして、妻鳥先生が長く歌ってこられた「詩人の恋」Dichterliebe.を演奏していただきます。これはハイネの詩にシューマンが曲をつけたものでして、名作、傑作です。是非これをお聴きいただきたいと思います。

 (妻鳥)

 「よろしくお願いいたします。えーとですね。Dichterliebe、 作品番号48なんですけれども、市販されている、世の中に出ているのは16曲なんですね。で、シューマンが一番最初に作ろうとした、一番最初は20曲らしいんです。それを一緒に入れてやった方が良いのかどうか、わからないなぁ…・要するに16曲はよく聴いているのだけれど、後の4曲はそんなにお聴きになったことが、あまり無いと思う。ただそれをやると、お客様帰っちゃうんじゃないかと…・。ただ私は、ちょっと素敵な曲、ちょっと地味なんだけれども、ハインリヒ・ハイネだから良いんじゃないかなぁ…・・。それをやろうかどうかと、いま考えているのですが、覚えるのは大変なんですけれども。

地味ですが、誠心誠意、明日から心を入れて勉強いたしますので、是非お聴きくださいませ。」

(真鍋)

「これは小ホールで致しますので、一定入っていただかないと格好がつかないので、是非周辺にもご案内をお願いいたします。それじゃぁ、今日はこれで。どうもありがとうございました。」    


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