「女の愛と生涯」 を中心に ローベルト・シューマンとその時代 第4回 ドイツ歌曲への誘い を終えて 19.Nov .2015
- 妻鳥 純子
- 2015年11月19日
- 読了時間: 14分
9月19日(土)第4度目の「ドイツ歌曲への誘い」を無事に終えることが出来た。 終えてから、随分と日にちが経ってしまった。10月7日に西条を発ち、10月10日の新国立劇場の「Rheingold ラインの黄金」を聴いて、10月12日に西条へ帰ってきた。上京する前にHPの更新をするつもりであったが、上京準備と、日々の仕事が山積みであった。今日11月18日現在、数日前から体調を崩し、仕事を後へ後へと延引している状態である。昨年チロル音楽祭とバイロイト音楽祭で「Der Ring von Niebelungen ニーベルンゲンの指輪」を聴いていたので、大変期待して聴きに行ったのだが、聴き終えた結果は、これは日本で上演するのは大変難しいものだと思った。良く仕上がっている、とは残念ながら言えないと思った。オーケストラの音と、舞台上の劇の筋との融合、ワーグナーの音楽を実現することは、大変難しいのではないだろうか。このように言いながら、今のところ、後の3作を聴きに行く気では、いる・・・・!
さて、話が後先になっているが、9月19日(土)第4度目の「ドイツ歌曲への誘い」では、当初、Frauenliebe-und Leben を 抜粋して演奏しようと思っていたが、真鍋和年さんが、会の初めに、開演にあたって少しお話をして下さることになったので、全曲歌うことにした。いつもドイツ語を朗読していたけれど、今回それをすると全曲で8曲あるので、歌う私も又聴く方々も、集中が途切れると思い、私は1番最初と最後のドイツ語を朗読し、真鍋ひろ子さんに4曲訳詞を読んでいただき、私が4曲歌い、後半4曲もそのようにした。
初めに真鍋和年氏に、先程も紹介したようにご挨拶をしていただいた。1840年、歌の年と呼ばれるようになる年にRobert Schumann(ローベルト・シューマン)がLiedekreis(リーダークライス、Op.24), Liederkreis(リーダークライス、Op.39), Myrthen(ミルテ、Op.25), Dichterliebe(詩人の恋、Op.48), Frauenliebe-und Leben(女の愛と生涯、Op.42) などを作曲したこと。Clara Wieck(クラーラ・ヴィーク) との結婚をめぐって父親Friedrich Wieck(フリードリヒ・ヴィーク) との裁判所に決定を願うまでの確執の事等が紹介される。その年R.シューマンは道を歩いていても歌が湧き出す状態であったこと等。
「女の愛と生涯」は、詩人 アーダルベルト・シャミッソーの詩で、彼はフランスの貴族出身で、フランス革命を逃れてプロイセンに来、二つの祖国の闘いに巻き込まれた。彼の小説 ≪影をなくした男≫ は、現在も岩波文庫から出版されていることなどが紹介される。シャミッソーは40歳前に18歳の少女と結婚、1830年に詩を発表する。この曲集は、「古色蒼然としている、男尊女卑だ‥‥」などとの批評はあるものの、やはり、批評はともかく、その時代の作品としては、一聴に値するのではないか・・・・・といったことが話され、シャミッソーの9連の詩について話された。(シューマンの「詩人の恋」では、9連眼の最後の詩はカットされていて、8曲に附曲されている。)
真鍋ひろ子女史 休憩中
休憩をはさんで会の後半、真鍋和年さんの講義を以下要約する。 (少し長いですが、興味深い内容でしたので、ご紹介いたします。) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
少し又私の方からおしゃべりをさせていただきたいと思います。先程「女の愛と生涯」について触れましたけれども、内容についてですけれども、意外にヨーロッパでは、フランス革命で人格が確立した、男女平等も成立した・・・と勘違いしがちなのですが、実はそうではないんですね。そうではなくフランスで婦人参政権が認められたのは、1945年で、日本と同じ年なのです。フランス革命後のナポレオン法典、1804年民法法が作られ、家族法では「妻は夫の保護義務を負い、妻は夫に服従する義務を負う。」(会場から笑い)・・・この義務が解除されたのが、1938年、第2次世界大戦の少し前ですね。‥‥ということでこの歌詞の内容が男尊女卑、時代的な制約なんですよね。それとして知る、ということでしかないのではないだろうと思います。 それともう一つ、ドイツ語の訳の事で前にも言ったことがありますが、Frauenliebe-und Leben の訳ですが、Frauen と言うのは、womanとか,lady と言う意味ですね。Liebe は「愛」、Lebenはlifeですが、自分が学生時代に、この曲のLPを捜していた時に「婦人の愛と生活」なんて言う訳で出ていて(会場、爆笑)‥…「聴きたくないなぁ…」という感じですね。 シューマンはクラーラとの有名な恋愛があります。「真実なる女性」(原田光子著)昭和16年という本に出ていまして、この本はいまだにずっと出ていまして、新しいものになっています。これはクラーラがほんの小さい頃から父親に厳しく日記をつけるように躾けられていまして、詳細な日記をつけていました。それをもとにして本にしたものです。それでシューマンの結婚してからのことが良くわかるのですね。
R.Schumann(ローベルト・シューマン) についてご紹介いたします。 シューマンは、ザクセン王国のツヴィカウというところで1810年に生まれております。 ザクセン王国というのは当時ドイツの神聖ローマ帝国の時代なんですけれども、ザクセンとか、ブランデンブルグなど選帝侯(神聖ローマ皇帝を選挙する権利を持っている)で、強力な国家であった。バイエルン王国、ザクセン王国というのは非常に強力な国家であったんですね。前にゲーテの所でご紹介しましたけれども、ワイマール公国なんですね。遥かに格が落ちるわけですね。このザクセンのツヴィカウで生まれました。同じザクセンに商業都市で、Leipzig(ライプツィヒ)というのがあります。クラーラはそのライプツィヒ生まれですね。ザクセン王国の首都はDresden(ドレスデン)、ここにWagner(ワーグナー)が生まれるという、ザクセンというのは非常に音楽的な背景のある王国だったわけです。
シューマンのお父さんは出版業、書籍販売業をしていて、著作もあるという人でした。 それでシューマンも小さい頃から芸術に親しんだわけです。お父さんの配慮で7歳からピアノを習い始め、並々ならぬ才能を発揮したようです。当時の文学、古典文学などに親しみ、あるいは「ドイツ観念論的哲学」にも親しみましたし、店の本を自由に読む許可を得て、幅広い教養を身につけていた。
詩に曲を付ける場合に、やはり大変詩を理解していたのですね。
シューマンを語るうえで大きな事件というのが1826年に起こります。シューマンが16歳の時には、お姉さん、エミーリエという人が身投げ自殺をする.(シューマンもライン川に身を投げました。)その年にシューマンを支援したお父さんが亡くなっている。相次いで二人のお兄さん、義理のお姉さん、親友とかが亡くなる。そういう境遇ですね。それでお母さんの強い勧めで、音楽が大好きだったのだけれども、音楽では食べられないから法学部へ行きなさい、とのことでライプツィヒ大学の法学部へ行きます。
しかし、法学が嫌で嫌で仕方がなかったんでしょうね。
一時、Heidelberg〔ハイデルベルク〕にも行きます。1830年、20歳の時、音楽を教えているFriedrich Wieck(フリードリヒ・ヴィーク)クラーラの父親に弟子入りします。ヴィークに弟子入りする前に、ライプツィヒ大学で、お母さんの知人のカールス博士という人のサロンに行き、初めてそこで9歳のクラーラの演奏を聴きびっくりしたということです。その後、内弟子ということで、クラーラの家に住み込んでしまうのですね。1831年シューマンはヴィークにピアノを習っていますが、作曲についてはHeinrich Dorn(ハインリヒ・ドルン)という当時有名な作曲の指導者だったのでしょう。指揮、作曲、評論などもしていたようです。Wagner(ヴァーグナー〉もこの人に習っているのですね。1832年に良く言われるように、シューマンは右手の薬指を傷める、関節が腫瘍?か何かで使えなくなり、評論家、作曲家を目指すようになったわけです。
1834年、24歳の時「新音楽事報」という音楽雑誌の主筆になります。フロレスタンとオイゼビウスという架空の人物を登場させ、その人たちに色々と喋らせるという趣向で展開します。音楽評論「音楽と音楽家」(吉田秀和訳)岩波書店から出版されています。…‥この中でシューマンは色々な人を取り上げています。Chopin(ショパン)については「諸君脱帽し給え、天才が現れた」と、凄い男が出てきたぞ‥‥ということを書く。ずっと後にBrahms(ブラームス)が出てきた時には、「新しい道」という記事を書いて、ブラームスを激賞する。あるいはBerlioz(ベルリオーズ)は、フランスの作曲家ですから、ドイツでは知られていなかったのをドイツに紹介する。‥‥‥この頃にF. ヴィークの所にピアノを習いに来ていた男爵令嬢Fricken さんとの恋愛事件(婚約までするのですが)がありまして、それは駄目になるのですが。その後クラーラが16歳の時ですけれども、恋愛めいたものが出てくるわけです。クラーラが18歳の時にシューマンと結婚の約束をいたします。
しかし、クラーラは実は9歳の時にライプツィヒのGewandthaus(ゲヴァントハウス)でMozart (モーツァルト)のピアノ協奏曲で演奏し、プロデビューをしているわけですね。天才少女として売れていまして、ヴィークはシューマンとの結婚に大反対をいたします。反対の理由としては、「シューマンは非常識な夢想家である。」「無責任である。」「大酒のみである。」「浪費家である。」「精神病の兆候がある、ということを感じていた。」父親としては、クラーラの約束された将来、幸福を破壊するに違いない、ということで大反対をする。クラーラが20歳の時の訴訟で結婚を認められる‥‥ということになります。その訴訟中にシューマンはイェーナ大学で哲学博士号を取る。シューマン博士と言われることがありました。ブラームスが20歳の時に初めてシューマンの所を訪ねて玄関先で「シューマン博士はご在宅ですか?」と言ったようです。

真鍋和年氏
結婚の年1840年は「歌の年」ということで多くの歌曲の傑作を書いています。 1840年の次は何故か「交響曲の年」となってしまうんですね。第1番の「春」、第4番 こういったものを翌年に書いています。「春」なんかはメンデルスゾーンが指揮をして(Gewandthaus)ゲヴァントハウスで初演されていますね。 その翌年は」(室内楽の年)有名なピアノ5重奏曲、ピアノ4重奏曲を作曲しております。 その後1844年にはロシアへの演奏旅行をする。クラーラはニコライ皇帝の前での御前演奏をします。シューマンも付いて行ったのですが「あなた、どなた?」といった扱いを受けたということです。 それから1848年にはドレスデンに住んでおりましたが、2月にフランスで革命がおこります。フランス革命の後ナポレオン時代があり、ナポレオンが倒れた後ブルボン王朝が復活します。ブルボン王朝が1830年の革命で倒れた後、ルイフィリップ(やっぱりブルボン家の親戚ですが)が国王になっていた。その国王が倒されたのが1848年のフランス2月革命です。これがヨーロッパ中に波及をいたします。これがドイツにも波及いたしまして、1849年にドレスデンで蜂起し、市民が立ち上がるわけです。その時にドレスデンの国立歌劇場、王立歌劇場というか、Wagner(ワーグナー)がここの指揮者をしていたのですけれども、ヴァーグナーは一転して革命派になりまして、バリケード構築の指導をしたり、王制批判演説、大演説を3000人の聴衆の前で行ったり、ドレスデンの革命の輝ける指導者だったんですね。ここにはロシアの革命家のバクーニンなんかも参加していて大砲や銃が乱射される、大変な騒乱になるんですね。結局のところ革命派は鎮圧されて、ヴァーグナーには逮捕令状が出て、指名手配されることになりました。そしてチューリヒに亡命してしまうんですね。で、ヴァーグナーが帰ってこられたのは、後のバイエルン国王Ludwig 2世(狂った王、と言うか、ヴァーグナーが好きでたまらん‥‥と言う、バイロイトの祝祭劇場ですね…をつくったり、皆さんがドイツへ行ったら行く、この平和な時代にNeu Schwan Stein 城を作った王ですね。、)の招きによってドイツに帰ることが出来た…‥そんなことですね。 そういった騒乱の中でシューマン一家は郊外へ避難をしてひっそりと生活していたようです。 その後、シューマンは1850年Düsseldorf(デュッセルドルフ)の音楽監督に招聘されます。しかしシューマンは非常に内気で、声も小さかったようでして、オーケストラの指揮者と言うのはどうもあまり向いていなかったようですね。オーケストラとの対立、理事会との対立などがあって、あまりうまく行かなかった。その後1853年、20歳のBrahmsブラームスがシューマンを訪ねてきて本当に意気投合するんですね。ブラームスが希望の星だったんですね。クラーラにとってもそうですね。
ブラームスが来た時、髪を長くして、リュックサックを背負って、泥まみれの長靴(長靴と言っても革靴でしょうけれども)「シューマン博士はいらっしゃいますか?」と言って来て、自分の曲を演奏したりなんかして物凄く意気投合する。ブラームスはシューマンの後継者という位置づけで、本当にシューマン一家と親密になるんですね。 その半年ぐらい後からシューマンの精神障害が非常に顕著になりまして1854年、36歳ですけれども、2月にライン川に身を投げるんです。この時はフラッフラッと出て行って、ラインの橋守りに通行税を要求された。首に巻いていた絹のハンカチを渡して、そのまま走って行って、橋から飛び込んでしまうんですね。そこへ川蒸気船来ていて、それで助かったんです。その後精神病院へ入ります。非常に幻聴があって、いつもそれに悩まされていたようです。そういうような経過がありましてシューマンはもう殆ど作曲とかが出来なくなりました。 その後クラーラがブラームスを支援して、世間ではブラームスとクラーラがと、色々言われますけれども、クラーラとブラームスが付き合ったのは43年間、その間800通の手紙のやり取りがあったようです。そういった関係です。
で、あとですね、シューマン一家はメンデルスゾーンと親しかったんですね。メンデルスゾーンがLeipzig(ライプチィヒ)のGewandthaus(ゲヴァントハウス) の指揮者になりますね。そういったこともあってほぼ音楽理念が重なっていまして、シューマン、ブラームスはヴァーグナー、リストとはどうも合わなかったようですね。 でも、メンデルスゾーンとは親しかったようです。LeipzigのGewandthaus(ゲヴァントハウス)ですけれども、これは本当に名門オーケストラと言いますか、新しいオーケストラでして、それまでは国王がオーケストラを抱えていたのですけれども、市民階級が作った初めてのオーケストラでして、入場料で維持するという、そういうオーケストラだったようです。Gewandthaus(ゲヴァントハウス)と言うのはLeipzig(ライプチィヒ)の織物、反物を扱う商人たちの商館‥‥こういった意味なんだそうですね。 1835年にメンデルスゾーンが指揮者・監督になって、100年ぶりにBach(バッハ) のMattäus-Passion(マタイ受難曲)を演奏するんですね。それからRossini(ロッシーニ)なんかがWien(ウィーーン)を席巻してBeethovenn(ベートーヴェン)なんかが忘れられている時代にベートーヴェンなどをしきりに取り上げます。クラーラもベートーヴェンを物凄く弾くんですよね。 それからF.Schubert(シューベルト)を取り上げます。 シューベルトが1828年に亡くなり、1827年にCarl Maria vonWeber (ヴェーバー)が亡くなり、1827年にベートーヴェンが亡くなる。そして1828年にシューベルトが亡くなる。10年後にシューマンがウィーンに行った時に、シューベルトのお兄さんを訪ねて行って、大切にしまわれていた資料を見せてもらう。それで例のハ長調のシンフォニー「グレート」と言われている原稿を発見してシューマンが凄く感動したという…‥それをゲヴァントハウスで演奏する、というようなことです。 ゲヴァントハウスが大体シューマンやなんかの拠点になっていったということです。 それからこれは余談ですが、ゲヴァントハウスにメンデルスゾーンが着任した後、Leipzig音楽院、音楽学校をメンデルスゾーンが創設します。メンデルスゾーンが院長です。シューマンは作曲とピアノの教授と言うことでここで教えるんですね。後の時代に1901年になりますけれども、滝廉太郎がドイツへ音楽留学した、そこがゲヴァントハウス音楽院なんですね。そういった風な関係があります。 おしゃべりは大体その位で、種がつきました…‥‥‥‥以上でございます。
演奏 ・Die Lorelei Clara Schumann ・Auf Flügeln des Gesange Felix Mendelssohn ・Widmung Robert Schumann ・Das Veichen Clara Schumann ---------------------------- ・白月 本居長世 ・まちぼうけ 山田耕筰
妻鳥純子 歌とお話 ドイツ歌曲への誘い Vol.4 ローベルト・シューマンとその時代 女の愛と生涯 ~音楽談義を交えながら、ドイツ歌曲を鑑賞しクラシック音楽の深奥に触れていただく音楽サロン~
♪ ローベルト・シューマン、クラーラ・シューマンのこと、二人の周りの人々 ♪ 詩人シャミッソー について 演奏曲目 ♪ 女の愛と生涯 8曲の中より抜粋 ローベルト・シューマン 作曲 ♪ 歌の翼に フェリクス・メンデルスゾーン 作曲 ♪ すみれ 他 クラーラ・シューマン 作曲
アルト 妻鳥 純子(めんどりすみこ) ナヴィゲーター 真鍋 和年 ピアノ 石川 友美 朗読 真鍋 ひろ子
妻鳥純子(アルト) 東京芸術大学音楽学部声楽科卒業、同大学院修了。第42回日本音楽コンクール第3位、海外派遣コンクール松下賞受賞。 ミュンヒェン音楽大学に留学。元武蔵野音楽大学非常勤講師、元玉川大学非常勤講師。二期会会員。現在西条市在住。
石川友美(ピアノ) 新居浜市出身。 くらしき作陽大学音楽科ピアノ専修卒業。同大学大学院修了。2015年3月に渡邉康雄氏指揮の下、瀬戸フィルハーモニー交響楽団とラフマニノフ、ピアノ協奏曲第2番を演奏、好評を博す。
2015年 9月19日(土) 開演 19:00(開場18:30) 西条市総合文化会館リハーサル室 入場料 2,000円(税込) 定員 30名 【主催・お問い合せ】 西条市総合文化会館 プレイガイド 西条市総合文化会館 西条市丹原文化会館 電話 0897-53-5500 E-mail info@sogobunka.com [URL.] http://ww.sogobunka.com/
Comentarios