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妻鳥純子

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「ドイツ歌曲への誘い」 vol.7 ジプシーの歌 ~ ヨハネス・ブラームス   を終えて                30.Nov .2016

  • 妻鳥 純子
  • 2016年11月30日
  • 読了時間: 27分

9月24日(土)「ドイツ歌曲への誘い」Vol.7 ジプシーの歌~ヨハネス・ブラームスを、無事に終えることが出来た。随分時間が経ってしまった。 次回は、Vol.8 「眠りの精」~ ヨハネス・ブラームス 12月17日(土)19:00 西条市総合文化会館 リハーサル室 の予定である。   Vol.7「 ジプシーの歌」の、真鍋和年氏の講義を載せる。 2016年 9月24日(土) 「ドイツ歌曲への誘い」Vo7 「ジプシーの歌~ヨハネス・ブラームス」真鍋和年講義

皆さん、今晩は。今日はちょっと、と言うか参加が大幅に少ないんですけども、時間が参りましたので、第7回目の「妻鳥純子の音楽サロン」を始めたいと思います。今日はブラームスの歌曲を勉強したいと思います。そこでブラ-ムスについて少しお話したいと思います。恐らく皆様方がブラームスを聴かれるときには、4曲の交響曲ですね、相当完成度の高い、それからピアノ協奏曲2曲、あるいはヴァイオリン協奏曲、あるいは室内楽曲、そういったものを多く聴かれると思うんですね。比較的ブラームスのリート、歌曲は耳慣れないのではないかと、私自身も、あまりブラームスの歌曲は聴いていないので、今日は楽しみにしております。  それでブラームスですけれども、1833年生まれなのですが、ブラームスが生まれた時に、ヴァーグナーは20歳、シューマンとショパンが23歳、メンデルスゾーンが24歳。こういうロマン派の作曲家にかなり遅れてやってきた作曲家です。ブラームスは、これは吉田秀和さんという音楽評論家、先年亡くなりましたが、音楽評論の第1人者でして、「ブラームスの音楽と生涯」と言う本を書いておりまして……「ブラームスの音楽は音楽を聴く耳と心を持ち合わせている市民達のための音楽である。」と言っております。同時代のヴァーグナーなんかですと、どちらかと言うと当時の貴族層に受けるような音楽だったわけですね。リストなんかもそうです。ヴァーグナーは、ニーチェとかボードレールと、当時の天才的な芸術家との付き合いも深かったということですが、ブラームスの音楽は、比較的市民階級に聴かれる音楽でした。 この時代、ヨーロッパでは市民社会はかなり成熟をしておりまして、上層の市民は、ピアノを弾いたり、あるいはヴァイオリンとかチェロを弾くというような、家庭でも音楽会を催すような、そういう時代になっているかと思います。したがって、ブラームスが書いた楽譜、これが結構売れました。それから演奏会、従来は宮廷なんかでやるんですけれども、この時代には市民が参加する音楽会がかなり盛んになっておりまして、音楽会の収入、これも結構得られたわけです。それで、非常に貧しい家に生まれたブラームスですが、ドイツレクイエムをヒットさせてからは、かなりお金持ちになりますね。ブラームスはそういう人です。言ってみれば、ロマン主義音楽の爛熟期にあって、時代の風潮に流されず、ドイツ古典音楽の伝統に深く根差した独自の様式を確立した人です。リストとかヴァーグナーが新しい音楽をひたすら追求した。標題音楽、楽劇という分野ですね。しかしブラームスは頑なに古典的な様式を守った人です。

当時一般には顧みられなくなっていた、ソナタですとか、変奏曲、室内楽曲、あるいは交響曲、こういうジャンルの作曲に邁進した人なのですが、ブラームスは非常に勉強家でして、過去500年位の音楽について相当研究した人です。そういう、中世の教会音楽でありますとか、ネーデルランド音楽、あるいは、ルネサンス、バロック、こういった要素を、自分の作品の中に生かして古典的な様式の中で音楽を作り上げた、そういう人ですね。 ブラームスは、一方では文学についても非常に造詣が深い人でした。ゲーテ、シラーとか、ノヴァーリス、ホフマン、そういった人たちの本を非常によく読んでいたようです。文学的な教養においては、シューマン以上である、との評価もあります。シューマンは本屋さんの息子ですから、かなり本を読む人だったのですが、ブラームスはもっと読んでいて、「本の虫」だったということです。少年のころのノートが残っているんですが、こういうことを言っています。「芸術より自分の命を大切にする人間は、決して芸術家になれない。」と。若くしてこういう藝術至上主義に目覚めた、そういう人ですね。

又、一方では、変奏曲(ヴァリエーション)の名手でした。「シューマンの主題による変奏曲」でありますとか、「ヘンデルの主題による変奏曲」、「パガニーニの主題による変奏曲」、「ハイドンの主題による変奏曲」と、こういった変奏曲の名曲を作ります。 変奏曲、妻鳥先生に解説してもらえばよいのですけれども、モーツァルトの「キラキラ星の主題による変奏曲」がありますけれども、あれを機会があったら聴いてみて下さい。変奏曲と言うのが良くわかります。かつ、モーツァルトがいかに天才であるかが良くわかると思うんですね。 それからブラームスはシューマンの弟子なんですけれども、歌曲についても、196曲の独唱曲を収めた、31の歌曲集を出しております。一方ではピアノの名手でして、相当ピアノが上手かったんです。19世紀の代表的なピアニストの一人だろうという評価がある位です。 一方でブラームスは非常に完璧主義者で、交響曲第1番、あれを作るのに20年余りかかっているんです。なかなか完成しないという。若い頃18歳位まで結構作曲していたのですが、全部捨ててしまっているんですね。そういう完全でないものは廃棄してしまう、そういう完璧主義者でした。 ブラームスの性格的なことですけれども、大変内気でシャイ、内省的である、慎重である、引っ込み思案、こういった性格でして、リストなんかにも会うんですけれども、リストは自己顕示欲の塊みたいな人ですので、こういう人は苦手だなぁ、と、あまり近寄らなかったんですね。後には音楽に対する考え方で、リスト、ヴァーグナー達と決定的に対立いたします。

それから生い立ちですが、ブラームスは、ハンブルグ生まれです。ハンブルグはホルシュタイン地方、ドイツの北の方で、デンマークに近い方ですね。祖父は、ホルシュタイン地方の北海に面した小さな寒村で、細々と旅館とか食料品店をやっていたようでして、ブラームスのお父さんのお兄さんが家業を継いで、更に質屋とか古物商を開業するんですね。 ところが、ブラームスのお父さんは音楽が大好きで、独学で音楽の修業をします。特にコントラバスを修業したようですけれども、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとかフルート、ホルン、と、こういったものが結構得意だったんです。それで酒場とか街頭でダンス音楽の演奏をしていました。後に、ホルン奏者として、ハンブルグの民兵に入隊します。   ハンブルグは帝国自由都市ですが、かなり独立性の強い都市で、独自の軍事力も持っていて、そこのホルン吹きをしたようです。後年、ハンブルクフィルのコントラバス奏者にもなったという、そういう家庭に生まれました。で、お母さんは…‥お父さんは非常に貧しい生まれなんですけれども、お母さんは比較的裕福な中流階級の生まれでしたが、没落してしまっていまして、お針仕事なんかをして生活を立てていました。名はクリスティアーネ・ニッセンと言い、ブラームスのお父さんより17歳も年上で、そういう女性と結婚することになります。このように極端に歳の離れた夫婦に生まれたブラームス、3人兄弟の真ん中ですね、お兄さんと妹がいます。 ブラームスも小さい時から、非常に音楽的な才能を発揮したようです。このご両親は比較的教育にも熱心で、当時はまだ公立学校がない時代ですから、私立の学校へ行くんですけれども、そこに入れて教育を施す。一方では音楽教育に熱心でした。お父さんが音楽が好きだったということもありますけれども、7歳でオットー・コッセルという人にピアノを習うんです。そのコッセルさんという人は、なかなか優秀な先生で、「ピアニストは心で感じたものを指で表現できなければならない。」という信念を持った人でブラームスにピアノの教育を施す。ブラームスが貧しくピアノが無い、という時にコッセルはピアノを持ってブラームスの家の近くに引っ越してきて教育をした、という、それほどの人です。

余りにもブラームスが才能が恵まれているので、コッセルは自分の師匠の、エドゥアルド・マルクスゼン、という人に付けるんですね。その天才少年の頃、アメリカで、「天才少年」と言うことで興行して売ろう・‥…という話まできたくらいですから、かなり地域では目立った才能だったと思います。で、次にマルクスゼンという人は、なかなかのピアノ教師、あるいは作曲についてもブラームスに手ほどきをいたします。10歳から18歳までその人に「音楽」というものを習っていました。そのマルクスゼンが言うには、メンデルスゾーンが亡くなった時に、「今、芸術の巨匠が神に召された。しかし、より大きな才能がブラームスの中で花開くだろう。」と予言するんです。それほどブラームスは才能に恵まれていた、認められていたわけです。

その頃ブラームスは、13歳の年から酒場のピアニストをして家計を助けます。ダンスホールとか、そういう酒場で、アルバイトをするわけです。それは、ハンブルグと言う港湾都市、当時のヨーロッパでは相当巨大な港湾都市です。北ドイツ、エルベ川下流にある港湾都市なんですけれども。  ここは、中世以来自由ハンザ都市同盟の盟主で、ブレーメンとリューネベック、ハンブルグがハンザ同盟を牽引していました。さっき言いましたけれども、独自の民兵、軍事組織を持って戦争もするという。神聖ローマ帝国の中の帝国自由都市ですね。ですから君主を戴くザクセンなどの連邦と同格の一種の都市国家であったわけです。 そういった自由都市としての気風が受け継がれ、また宗教改革を早くから受け入れて、ルター派とかカルヴァン派、あるいはユダヤ人の避難所にもなっていたようです。基本は、プロテスタントの都市です。そういう港湾都市ですから長期航海に行っていた船員が上陸する時に、やはり歓楽街が発達するわけですね。言わば赤線地帯、と言いますか、今でもここは「レーパーバーン」と言う大歓楽街があります。相当有名なんだそうですが、どなたか行ったことがある人いらっしゃいませんか? 風俗産業が盛んで、今でも「飾り窓」があります。ナイトクラブとか。そういったところでブラームスはアルバイトをするんです。そこで即興演奏とかの腕を上げたようです。 このレーパーバーンというのは、ビートルズが下積み時代に音楽活動をしていたことでも知られています。そういう煙草と脂粉の匂いの中で13歳の少年ブラ-ムスが、(少年時代、ものすごく美男子だったそうです)、白皙(はくせき)の美少年が、働いていたんですね。「売春宿」もあり、年の端もいかぬ少年にとって劣悪な環境なんです。けれども、そこで稼ぎをしていました。これは、生涯のトラウマになったのかと、そんな風にも思います。

 これが、ブラームスの出発点なんですが、17歳の年にハンガリーから亡命してきていたヴァイオリニストのエドゥアルド・レメーニという人と出会うんです。このハンガリーですが、1848年にヨーロッパ各地で革命がおこりますね。前にもお話いたしましたが、ドレスデンなんかでは、ヴァーグナーとか、そういった人たちがバリケードの中で闘う、といったことがありましたけれども、ハンガリーでもそういった革命が起こります。しかしいずれも、革命は鎮圧されて多くの人が亡命するわけです。このレメーニもハンガリーから亡命してきていまして、そのレメーニからハンガリー音楽を教わる、学ぶんです。それがジプシーの音楽なんですね。そこでブラームスがジプシーの音楽を知る訳です。 「ハンガリアンダンス」というブラームスの曲がありますけれども、これなんかがレメーニから聴いたハンガリーの音楽を元にして作っていまして、後にレメーニから盗作だ、ということで訴えられもするのですが、これはブラームスが勝訴します。ですから、その「ハンガリアンダンス」ハンガリア舞曲には作品番号が振られていません。ブラームスのオリジナルではないんですけれども、非常に有名な曲です。 このレメーニという人、非常に山っ気のある人で、アメリカへ行って、5年くらい放浪の楽士として、アメリカで放浪するんですけれども、後に明治の初年1886年に、ハンガリーのヴァイオリニストとして日本にやってきます。幾度か演奏会を開くんですけれども、鹿鳴館でもやっていまして、明治天皇の前で御前演奏をするんです。その時、皇后とか女性皇族は初めて洋装で音楽会に行ったそうです。ところが何を演奏したかは、主催者サイドには全く記録が残っていないんで、どなたかが調べたら、横浜の英字新聞に記録がありまして、ベートーヴェンの「クロイツェルソナタ」、それからパガニーニの「カプリス」とこういった曲を演奏したらしいんです。そして平成14年に今上天皇、皇后がハンガリーを訪問した時に、この時のことを話題にされた、そういうエピソードがございます。この辺りで…‥。 では、妻鳥先生、よろしくお願いします。

             ――――――――――――――――――――――     (訳詞朗読)  真鍋ひろ子     (演奏)アルト 妻鳥純子 、 ピアノ 渡辺正子        ♪ 愛の誠実さ            Liebestreu          ♪ 私の愛は緑            Meine Liebe ist grün        ♪ 日曜日              Sonntag        ♪ 歌のメロディーのように      Wie Melodien zieht es mir        ♪ 私のまどろみはいよいよ浅く   Immer leiser wird mein Schlummer ――――――――――――――――――――――

休憩まで少し時間がありますので、ブラームスの続きの話をさせていただきます。 レメーニというハンガリー出身のヴァイオリニストと会ってジプシー音楽に触れたというところまで話しました。その後、20歳の時に、レメーニを介してハンガリー出身の名ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムと出会います。ライプツィヒ音楽院、メンデルスゾーンが院長の時にヨアヒムはこの音楽院でヴァイオリンを学ぶ、そしてヨーロッパで大活躍するんですね。 余談ですが、そのレメーニ、ヨアヒムはハンガリーですが、当時、人気ピアニスト、作曲家としてヨーロッパを席巻していたリストもハンガリー出身なんです。ハンガリーにエステルハージ家、というハンガリー最大の貴族、大地主がいて、そこの執事の息子なんですね、リストは。シューベルトもそこのお嬢さんのピアノ教師なんかをしていました。ハイドンもそこに雇われていましたね。そのハンガリー出身の馴染みでヨアヒム、レメーニはリストともよく知っていたようでして、その縁でブラームスは最初はリストの所へ行くのですが、どうもそりが合わなかったというか。作品も持参するのですが、リストが弾いて聴かせてくれ、と言っても、ブラームスは弾かなかったということです。そこでリストが初見でバリバリと弾いてみせたというエピソードが残されてますが、どうも関係がうまくいかなくて、その後リストには近づかなかったようです。        

その後ヨアヒムがシューマンに紹介する。紹介状を持ってシューマン家に訪ねてゆくんですね。その時に、前にも言いましたね。リュックを背負って、長靴みたいなものを履いて「シューマン博士はご在宅でしょうか。」と言う風に行くんです。そこで決定的な出会いがあります。 シューマンは当時デュセルドルフに住んでいましたけれども、この出会いが1853年の9月30日。その時にブラームスは20歳、クラーラ・シューマン34歳、ローベルト・シューマン43歳、そういう年齢です。 ブラームスは作曲していた曲を、ソナタ1番とか、何曲か持ってきてたんです。それで自作を弾きはじめると、シューマンが、「ちょっと待って」と制止して、わざわざクラーラを呼んで一緒に聴くんですね。それで一遍に気に入ってしまって、ブラームスを世に出そうと決意します。 当時シューマンは「新音楽時報」という、1,200部位しか発行されていなかったみたいですけれども、音楽雑誌の編集長‥…、自分で編集していまして、それで音楽評論をやっていたんですが、ここでブラームスを紹介することになります。実はシューマンは10年位勤めた後退いて、その時は別な人が編集長をしていたんです。その交代の直後にヴァーグナーが匿名で論文を寄稿するんですけれども、いわゆる「ユダヤ批判」と言うわけですね。ユダヤ人は金儲けばかりして、音楽や芸術は出来ない、と言うことを言うんですね。メンデルスゾーンに対する当てつけみたいなところもあったのかもわかりませんけれども、それがずっと後代につながってきて、ナチス・ドイツのユダヤ政策に利用される…‥と言うことになってくるわけです。その雑誌にシューマンは再び筆を執ります。9月30日にブラームスを初めて演奏を聴いて、直後の10月28日の新音楽時報に、これ、非常に有名なんですけれども、「新しい道」という評論を発表します。 その中で何を言っているかと言うと、 「今の時代に最高の表現を理想的に述べる使命を持った人、しかもだんだんと脱皮していって大家になる人ではなく、最初から完成されていた、ミネルバのような人が、(ミネルバと言うのはギリシャ神話に出てくる智恵とか音楽の女神です)、忽然と出現しなければならないはずだ、すると果たして彼がやってきた、嬰児の時から優雅な女神と英雄に見守られてきた若者だ、その名前は、ヨハネス・ブラームス、すごい人が現れた」とそこで紹介するわけですね。 「ピアノの前に座ると早速不思議の国の扉が開かれ、不思議な魔力の冴えにすっかり引きずり込まれた。彼の演奏ぶりは全く天才的で、悲しみと喜びの声を縦横に交錯させてピアノをオーケストラのように弾きこなした。」と言っています。「最後に彼の同時代人として、私たちは世界への門出にあたって、彼に敬礼する」── と結んでいます。このシューマンの推薦によってブラームスは世に出ます。既に作曲していたピアノソナタなどが出版されます。このようにしてシューマンとのつながりが出来ます。 クラーラ・シューマンはローベルト・シューマンの奥さんで、当時の女流ピアニストです。多分その時代は、女性が演奏会に出たり、と言うことは余りなかったと思いますが、19世紀最高の女流ピアニスト、と伝えられた人です。 EU以前のマルクの紙幣、100マルクの肖像はクラーラの肖像が載っていたんですよね。それほどクラーラはドイツ国民に人気の高い人です。クラーラとの出会いがブラームスの音楽に物凄く大きな影響を与えます。この本は、「クラーラ・シューマンとブラームスの友情の書簡」です。40数年にわたっての二人の手紙の交換をまとめています。この元の本、ドイツ語の原典があるのですが、それには800通の手紙が掲載されていまして、これはその中から207通を選んで日本語に訳しています。これは、以前に紹介しましたけれども、原田光子さんという、もう早くに亡くなったクラーラ・シューマンの研究家ですけれども、その方が編訳したものです。 40年の間持続して、残っているだけで800通。この本を見ましても毎日書いている時期もあります。電話とかメールとかが無い時代とはいえ、やや度を越した文通がなされております。師匠の未亡人であるクラーラのことがブラームスは好きになってしまうんですよね。ある評伝ではブラームスの青春と創造のすべてが、クラーラが源泉であった、というような言い方がなされています。知性と教養と美貌を兼ね備えた、匂うような女ざかりのクラーラとの出会い…というような表現ですね。その出会いの5か月後にシューマンはライン川に身を投げます。幸い助けられるんですが、精神病院に入れられて、2年半後に亡くなります。ローベルトが精神病院に入った後、シューマン家は母子家庭になりますけれども、そこに入り込んで、父親代わりみたいなこと、使い走りみたいなことをブラームスはずっといたします。 実際にはクラーラの門下生の指導であるとか、子供の勉強を見たり。ローベルト・シューマンを精神病院に見舞いに行ったりするのですけれども。何故か、当時の治療方法と言うのが、良くわかりませんが、妻とか子供に会わせないんです。患者に良くない、と言う風なことだったようです、当時は。それでブラームスは度々見舞いに行きますね。そのようにしてシューマン家の面倒を見る、と。周りの人達もちょっと心配する位、音楽の勉強もそっちのけで、そういう使い走りのようなことをしているわけです。 それから、手紙をずっと読んでみますとね、ブラームスも最初は「尊敬する人」と書いているんですが、暫くすると「最も貴重な友」という表現になって、「愛するクラーラ夫人」となって、「愛するクラーラ」に変化しております。 ドイツ語で Du と書いて「Du」それはあまりそういう関係では使わないんだけれども…‥「それは日本語ではどういう…・」……(妻鳥)‥‥dutzenと言って、「Du, というんですけれども、あんた…・あんた、と言う感じで言うんですね。偉い人とか先生に対してはSie  と呼ぶんですけれども、dutzen するのは、最初から使うとちょっとまずいかなぁ‥‥と言う感じです。(妻鳥)。     (参考 インターネットで、ときどきドイツ暮らしから頂きました。      【今日のドイツ語】      「Dutzen、Sietzen(ドゥーツェン、ズィーツェン)」      「Duで呼び合う、Sieで呼び合う」という意味。初対面の人から      「Lasst uns dutzen!」と言われたら、「Duで呼び合おうぜ!」ということ。) と言うことで、Duと言う呼び方をしだすんですね。 しかし、 ブラームスが24,5歳辺りから距離が出てくるようですね。ブラームスは25歳の時に、アガーテ・フォン・シーボルトと言う女性と婚約をするんです。指輪も交わします。書かれているものによりますと、名器アマティ…アマティと言うのはヴァイオリンの名器です。アマティのような声を持つ美しい女性だったんだそうです。ゲッティンゲン大学の教授の娘です。結婚するんだと思われたんだけれども、結末はブラームスは手紙を出して、「あなたを愛しています。しかし僕は束縛されるわけにはいかないんです。」と言ってしまって破談になるんですね。そのゲッティンゲンで、ブラームスがアガーテといる所にクラーラが訪ねてゆく場面がありますが、クラーラはすぐに二人の関係に気付いて何も言わずに立ち去ったというようなことがあります。そういうことで、この頃から二人の間に少し距離が出てきているのかな、と。 後日談ですけれども、ブラームスは結局誰とも結婚しない、生涯独身を通しました。決断できない人だったようでして。後にブラームスはクラーラを諦め、若い女性と結婚しようとしたら、今度も又決断できなかった、とクラーラがヨアヒムへの手紙でしたか、言っているんです。クラーラも晩年に、「ブラームスが、もしアガーテと結婚していたら作曲家であると同じように素晴らしい人間になったでしょうに…‥」と書いているんで、どうもブラームスは「素晴らしい人間」とは言えなかった…ようです。音楽家としては素晴らしかった、と言うのがクラーラの評価です。 別れたアガーテのことを偲んで後に「アガーテ6重奏曲」と呼ばれる曲を作ります。ブラームスの6重奏曲は名曲なんです。2つありますけれども、その後の方が「アガーテ6重奏曲」で、Aの音とか、Gの音とかアガーテの名前をを織り込んだ曲になっているんです。それからですね、30歳の年に、ハウァーというウィーン女声合唱団の美しい声を持った女性に魅了されまして、16曲自筆の楽譜を贈呈したりして入れあげるんですが、これもブラームスは、「ほかの誰かが釣り上げなかったら、自分は馬鹿なことをしでかしたかもしれない。」と。そういうことでこれも見送るわけです、ブラームスは。 それで今日、妻鳥先生の準備してくれています資料の中にもありますけれども、シューマンの娘ですが、長女はマリエさんで、次女がエリーゼさん、3女がユリエさん、ま、「yu-rieさん」と読むんでしょうけど。長女がマリエさん、3女がユリエさんです。このユリエさんの事を本当はブラームスは好きだったんですね。でも、そのユリエさんはイタリアの貴族と婚約をします。それでもう、ブラームスはがっかりしますね。その失恋の痛みの中で「アルトラプソディー」を作曲するんです。  また、エリザベート・フォン・シュトックハウゼンという美貌と才能を兼ね備えた女性が、ブラームスの所へピアノの弟子に入門してきたのですが、ブラームスは「これは危ないぞ」と思ったようでして、友人のエプシュタインという人に、レッスンを任せてしまったということもありました。それ位ブラームスは危ないと思ったら近寄らない、と言うところがあったようです。それから46歳の時にヨアヒム、奥さんがアマーリエというアルト歌手ですけれども、その奥さんと出版社の何とかの問題に、ブラームスはアマーリエにやたら肩入れをして、ヨアヒムと仲が悪くなってしまうんです。後に和解をするんですけれども、そういったことでブラームスは生涯独身だったんですが、それだけ見ると「女嫌い」なのかなぁ~、と思うんだけれども、そうではなくて決断できなかった、というそんな人でした。‥‥…大体時間ですね。 それでは10分位、お茶などお召し上がりになって、お休みください。

 ──────────  休憩  ──────────

(後半) じゃあ、そろそろ後半。お茶召し上がりながらお聴き下さい。 後半は「ジプシーの歌」です。その前段でですね。ジプシーについて、少し説明と言いますか、解説をしたいと思います。手っ取り早く、これは平凡社新書、水谷驍著「ジプシー」と言う本なんですけれども。 結構、ジプシーについては、文献があります。が、なんとなくわかったようでわからない。どうもジプシー研究自体も謎がまだまだ多い。はっきりしていないところが多いようですね。 今、ジプシーと言うのは差別用語だということで「ロマ」と言う風に呼び換えたりもしています。が、「いやいやジプシーで良いんだ。」と言うジプシーもいるらしいんですよ。 これもジプシーと言うことでずっと差別をしてきたから、その多分ジプシーと言う言葉自体が差別用語になってしまった、と、そんな感じではあるんですね。それで「ロマ」という。「ロマ」と言うのはその人たちが使っている「人」とか「人間」とかいう意味なんですね。この事情と言うのは、例えば、「エスキモー」最近「イヌイット」と言う風に呼び換えていますよね。これはどうもカナダのエスキモーが差別用語だということで嫌うらしくて「イヌイット」と呼び換えている。「イヌイット」も人と言う意味なんです。

序にアイヌも「人」と言う意味なんですよね。だからアイヌ人と言うのは、アイヌの人たちにとって決して差別用語ではない、「人」という意味ですから。エスキモーと言うのは、どうも「生肉を食べる人」と言う風な意味があって使われるらしくて。カナダの人は嫌うけれども、アラスカの人とかグリーンランドの人、そういったところの人は別に平気だということのようです。「ロマ」「ジプシー」も必ずしもジプシーと言うのは差別用語だから、ポリティカル・コレクトネスという、政治的な公正さとか、差別的な言い方でないようにしましょう……と言うのが、世界の大勢です。日本では、多分放送、NHK なんかでジプシーとは絶対に言わないと思います。一方では、ジプシーヴァイオリンなんていうのは、ロマヴァイオリンじゃ、何のことかわからないんで、使っているんだろうと思いますね。 ジプシーにそれぞれ皆さんイメージは持っていると思うんですよね。放浪の民であるとか、魅惑的な音楽と踊り、男たちを虜にする自由奔放な女、とか、手のひらの占い、とか、カード占いとかする女性のこと、なんとなくジプシーのイメージとして持っていると思います。19世紀位からは、家族が馬車に全部乗って、家馬車でいつも移動するようになります。そういったところで、ジプシーについてみて見ますと、キリスト教にとっては異端です。そこで浮浪者であるとか、泥棒であるとか、乞食、ごろつきとか、ならず者、いかさま師とか、無知蒙昧とか、不潔とか、いろんな口実で差別してきたわけです。

このように、政治体制の如何にかかわらず、ジプシーに対する弾圧差別はやむことがありませんでした。ヨーロッパでは中世以降ずっとジプシーに対する抑圧がありましたし、極めつけは、ナチスがジプシーを殺せ!…と言うことで、相当ジプシーが殺されています。ユダヤ人のことだけ触れられますけれども、ジプシーも絶滅対象だったわけです。 ところで、この呼称ですけれども、ジプシーと言うのは英語ですが、「エジプシー」が変化して「ジプシー」となったと言われています。当時エジプトからきたと信じられていたわけです。その人達もアレキサンダー大王に従ってエジプトから来たんだ、と言ったりもします。 フランス語でも同じような語源、ジプシーの同じ語源ですけれど「ジターン」あるいは「ボヘミアン」とう言い方もします。これは元々ボヘミアから来た「ジプシー」を指したんですね。「ボエーム」というプッチーニのオペラがありますが、あれはジプシーのように自由な、定職も持たずに、将来を夢見る芸術家の集まりですね。スペイン語でもやっぱり「ヒターノ」。これはフランス語と同じ。

ドイツ語では、Zigeuner ツィゴイナー、ツィゴイネル…‥古い言い方ですと「ツィゴイネル」ですね。ツィゴイネルワイゼン…・これは極めて有名です。これは「ジプシーの旋律」と言うほどの意味でして、サラサーテの作曲です。サラサーテ自身はバスク人です。その地方にもジプシーが沢山いた、と言うことのようです。  それから、ラヴェルが「ツィガーヌ」という管弦楽曲、ピアノとヴァイオリン曲両方あるんですけれども、ツィガーヌ、と言うのはジプシーと同じ意味です。 シューマンが「流浪の民」と言う曲を作っていますよね。これは古い言い方だったら、 Zigeunerleben  ツィゴイネルレーベン、ジプシーの生活、と言うほどの意味ですかね。 それからドヴォルザークも「ジプシーの歌」と言うのを作っています。

この前7月に妻鳥先生の学友で、岸本力さんが、ロシア語の「黒い瞳」と言うのを歌われましたけれども、「黒い瞳」と言うのはジプシー民謡ですね。「黒い瞳」というのはジプシー娘の黒い瞳です。 それから、カルメンがジプシー女ですね。それから、ノートルダム・ド・パリ、「ノートルダムのせむし男」ヴィクトル・ユゴーの。そのエスメラルダ、美しい踊り子、これがジプシー娘と言うことになっていますね。 更にフラメンコ、これスペインのアンダルシア、ジブラルタル海峡近くの地域ですけれども、セヴィリアとか、こういったところで、フラメンコが発祥します。これはジプシーの歌舞がもとになっていまして、カフェ・カンタンテなる酒場で盛んになってきたということです。  それと、音楽家の中でも、あのリストの再来と言われている、ジョルジュ・シフラという人がおりましたけれども、ブダペルトのロマ系、ジプシー系の人でした。  それから映画の世界ではチャップリンが自伝では、私は読んだわけではないのですが「母方の祖母が、2分の1、ロマ、ジプシーだったという風に書いているんだそうです。それからラフカディオハーンも、母方も父方もジプシー系だという風にどこかで言っているそうです。

それから「世界ロマ連盟」と言うのが1970年頃出来たんですけれども、その初代会長は映画俳優、ユル・ブリンナーですね、「王様と私」の。そのブリンナーがロマの血が入っているということで、その会長を引き受けたんだそうです。それで、ジプシーの人口と言うのは、良くわかりませんけれども、ヨーロッパだけでも、少なく見積もっても600万人。多ければ900万人くらいいるだろうと。ルーマニアに非常に多いんですね。これが250万人、スペインにも80万人、ブルガリア80万人、ハンガリー80万人、そんな感じです。スロヴァキアも50万人余り、あるいはロシア、フランス、チェコ、ギリシャ、これが2,30万人ですね。ある時期弾圧を逃れて南北アメリカへ結構行くんですね。だからアメリカ合衆国に100万人くらいロマがいるらしいです。 ドイツはナチスが絶滅させようとしましたが、どうも少なく見積もっても1万人位。 多ければ10万人位いるんではないかと言われています。 この人たちの起源と言うのが、これまた良くわからないんですね。 言語的には、インド・ヨーロッパ語族のようです。

その中のインド・イラン語群に属していて、サンスクリット語に非常に似ているそうです。文字は持ちません。遺伝子的には、これも良くわからないんだけれども、インドの先住民のドラヴィダ人に類似しているというんですけれども、そのドラヴィダ人と言うのはオーストラロイド系なんで、この説は怪しいなぁ…‥と思いますが、そういう風に書いている本があります。  移動径路は紀元1,000年から1,100年の頃に、インド西北部から西へ移動を開始して、イラン、それから中近東を通ってギリシャとかバルカンに入って西ヨーロッパに入った…‥と。西ヨーロッパに入った時期と言うのは非常にはっきりしていまして、例えば「一パリ市民の日記」と言う記録が残っていて、色んなところで引用される資料ですけれども、「1427年に12人のジプシーがパリへ入った…。たいていの男たちは両耳たぶに穴を開け銀のイヤリングを付けているが、顔色は黒く、頭髪は縮れている。女達は手相を見たり、占いをするが、魔術を使って人々の財布を空にしてしまうこともある」…と言ったことを、パリの一市民が日記として残しています。  ハンガリーでも、1416年、スイスでは1418年、イギリスでは1505年に出現したという記録が残っております。このロマの人達、一部は、神聖ローマ帝国の自由通行証を持っているんだ、と言い張ったりもしています。 これはちょっと似ているかなぁ、と思ったのは、日本で古い時代に、「木地師」という、木をくり抜いて椀を作ったりする木工集団が活動しますが、その木地師が惟喬親王の許可証を貰ってるとか、朱雀天皇の印璽を持っているということで、全国の山の7合目以上は自由に木を伐っても良いんだ、と言う風に言い張ってきました。それと似たようなことがあったようですね。

その後も、中近世ヨーロッパの各国においてジプシーに対する弾圧がずっと広まってきましてジプシーを殺害、殺しても無罪であるだとか、頭を坊主にしたりとか、さらし者にしたりとか、ガレー船の漕ぎ手を3年間やらせるとか、そういったことをします。今さっきも言いましたけれども、ナチスドイツが絶滅対象にして、良くわかりませんけれども、少なければ50万人、多ければ150万人位のロマが殺されている。1977年国連の人権委員会がようやく「ジプシーの人権保障決議」をして、今ヨーロッパではジプシーと言わずにロマと言い換えたり人権保障が進んでおりますが、この方々はやっぱりなかなか定住もしないんで、非常に対応が難しいようです。定住した人たちも職業が比較的限られてまして。例えば家馬車を車に乗り換えたりなんかして結構移動していると、そういうことのようです。  そのジプシーをテーマにした歌です。           ―――――――――――――――――――――――――――          (訳詞朗読)  真鍋ひろ子           (演奏) アルト 妻鳥純子  ピアノ 渡辺正子            ♪ 8つのジプシーの歌   Acht Zigeunerlieder

―――――――――――――――――――――――――――        アンコール           ♪ 甲斐なきセレナード    Vergebliches Ständchen           ♪ 子守歌          Wiegenlied


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