「ドイツ歌曲への誘い」 vol.8 眠りの精 ~ ヨハネス・ブラームス を終えて 23.Feb .2017
- 妻鳥 純子
- 2017年2月22日
- 読了時間: 30分
昨年12月17日に、「眠りの精~ヨハネス・ブラームス」を終えた。HP の更新がこのように遅れてしまった。次回3月10日の、ベートーヴェン の曲に取り組んでいるせいでもある。 プログラムから、一部分抜粋して載せようと思う。
プログラム ♪ ブラームスの音楽と生涯 ♫ 演奏曲目 ♪ 雨の歌 Regenlied ♪ 余韻 Nachklang ♪ 5月の夜 Die Mainacht ♪ 眠りの精 Sandmännchen 月の光に、花も草も…・(堀内敬三訳)
――――――――――― 休憩 ――――――――――
♪ ブラームスの音楽と生涯 ((続編))
♫ 4つの厳粛な歌 Vier ernste Gesänge
Regenlied Op.59,Nr.3 Claus Groth Walle, Regen,walle nieder, Wecke mir die Träume wieder, Die ich in der Kindheit träumte, Wenn das Naß im Sande schäumte ! Wenn die matte Sommerschwüle Lässig stritt mit frischer Kühle, Und die blanken Blätter tauten, Und die Saaten dunkler blauten. Welche Wonne, in dem Fließen Dann zu stehn mit nackten Füßen, An dem Grase hinzustreifen Und den Schaum mit Händen greifen, Oder mit den heißen Wangen Kalte Tropfen auzufangen, Und neuerwachten Düften Seine Kinderbrust zu lüften ! Wie die Kelche, die da troffen, Stand die Seele atmend offen, Wie die Blumen, düftetrunken, In der Himmelstau versunken. Schauernd kühlte jeder Tropfen Tief bis an des Herzens Klopfen, Und der Schöpfung heilig Weben Drang bis ins verborgne Leben. Walle, Regen,walle nieder, Wecke meine alten Lieder, Die wir in der Türe sangen, Wenn die Tropen draußen klangen ! Möchte ihnen wieder lauschen, Ihrem süßen, feuchten Rauschen, Meine Seele sanfte betauen Mit dem frommen Kindergrauen.
雨の歌 クラウス・グロート 雨よ、水滴をしたたらせて 私の夢を再びおこしておくれ 湿った雨水が砂地に泡立った時に 子どものころに見たあの夢を けだるい夏の蒸し暑さが 無造作に爽快な涼しさと競い合い つややかな木の葉が露に濡れ 苗がより黒々と青く見える 何と言うよろこびだったことだろう、 流れの中で裸足で立ち 草に軽く触れ 泡を手ですくったりしたことは! もしくは熱い頬で 冷たいしぶきを受け 新しく沸き起こった香りを吸い 子供の胸が空気を吸うこと! 水滴にうたれた花のうてなのように 心は息づき開いていた 香りを吸う花のように 恵みの露にひたされていた すべての水滴は 胸の奥深くまでぞっとするほどに冷やした そして創造の神々しい活動は 隠された生命にまで迫りゆく 雨よ、水滴をしたたらせて 私の古い夢を再びおこしておくれ 雨音が外で音をたてている時に 私たちが家の中で歌ったあの歌を あれらに再び耳をすませたい あの甘い、湿ったざわめきに耳をすませ 私の心を子供らしいおののきで やわらかく湿らせたいものだ
Nachklang Op.59.Nr.4 Claus Groth Regentropfen aus den Bäumen Fallen in das grüne Gras, Tränen meiner trüben Augen Machen mir die Wange naß. Wenn die Sonne wieder scheinet, Wird der Rasen doppelt grün: Doppelt wird auf meinen Wangen Mir die heiße Träne glühn.
余韻 クラウス・グロート 木々から雨露が 緑の草の上に落ちる 私の悲しみにひたる眼から 涙が私の頬を濡らす 太陽がふたたびかがやく時 芝生はますます緑の色を濃くする 私の頬の涙は同じように 益々熱くなるだろう
Die Mainacht O.43,Nr.2 Hölty Wann der silberne Mond Durch die Gesträuche blinkt, Und sein schlummerndes Licht über den Rasen streut, Und die Nachtigall flötet, Wandl ' ich traurig von Busch zu Busch. überhüllet vom Laub Girret ein Taubenpaar Sein Entzücken mir vor; Aber ich wende mich, Suche dunker Schatten, Und die Einsame Träne rinnt. Wann, o lächelndes Bild. Welches wie Morgenrot Durch die Seele mir strahlt, Find ich auf Erden dich ? Und die einsame Träne Bebt mir heißer die Wang herab.
五月の夜 ヘルティ 銀色の月が 藪を通して光る時 そのまどろんでいる明かりが 芝生の上に射す ナイティンゲールが歌う 私は哀しく藪から藪へと逍遥する 木の葉に隠れて 鳩の番がくうくうと 恋の歌を歌う しかし私は向きを変え より暗い陰を捜し 孤独の涙が流れる おお、頬笑む面影よ それは朝焼けのように 私の心に射しこんでくる いつ、この地上でお前に会えるだろうか? 孤独の涙が ふるえ、私の頬をつたって落ちる
Sandmännchen Aus den "Volkskinderliedern No.4 " Die Blümelein sie schlafen Schon längst im Mondenschein, Sie nicken mit den Köpfen Auf ihren Stengelein. Es rüttelt sich der Blütenbaum, Es säuselt wie im Traum: Schlafe, schlafe, schlaf du, mein Kindelein! Die Vögelein sie sangen So süß im Sonnenschein, Sie sind zur Ruh gegangen In ihre Nestchen klein. Das Heimchen in dem ährengrund, Es tut allein sich kund: Schlafe, schlafe, schlaf du, mein Kindelein! Sandmännchen kommt geschlichen Und guckt durchs Fensterlein, Ob irgend noch ein Liebchen Nicht mag zu Bette sein. Und wo er nur ein Kindchen fand, Streut er ihm in die Augen Sand. Schlafe, schlafe, schlaf du, mein Kindelein! Sandmännchen aus dem Zimmer, Es schläft mein Herzchen fein, Es ist gar fest verschlossen Schon sein Guckäugelein. Es leuchtet morgen mir Willkomm Das äugelein so fromm! Schlafe, schlafe, schlaf du, mein Kindelein!
眠りの精(砂の精) 「子どもの民謡」より お花たちは眠っている 月明かりの中でずっと前から おつむをその茎の上に かしげている お花の樹は震えている 夢を見ているのかな: おやすみ、お休み、かわいい子よ おやすみ! 小鳥たちが歌っているよ お陽様の中でとても甘い声で 寝床を求めている 小さな巣なのだけれど その寝床は麦畑にあってね それだけしかわからないのだけれど: おやすみ、お休み、かわいい子よ おやすみ! 眠りの精が足をしのばせてやってくる お窓から覗いている どこかにまだベットへ行きたがらない 可愛い子がいないかと 一人の子供を見つけると そのお眼々に砂をかける! おやすみ、お休み、かわいい子よ おやすみ! 眠りの精がお部屋から出てゆく 可愛い子はよく眠っている もうしっかりと閉じている 本当に可愛いおめめね 明日の朝私に、ようこそ、と輝き そのおめめは、とても素敵なの おやすみ、お休み、かわいい子よ おやすみ! 妻鳥純子 訳(161211)
Vier ernste Gesänge Deutsh von Martin Luther 1.Denn es gehet dem Menschen Denn es gehet dem Menschen ,wie das Vieh, Wie dies stirbt, so stirbt er auch ; Und haben alle einerlei Odem ; Und der Mensch hat nichts ehr denn das Vieh : Denn es ist alles eitel. Es fährt alles an einen Ort ; Es ist alles von Staub gemacht Und wird wieder zu Staub. Wer weiß, ob er Geist des Menschen aufwärts fahre, Und der Odem des Viehes Unterwärts unter die Erde fahre? Darum sahe ich, daß nichts Bessers ist, Denn daß der Mensch fröhlich sei in seiner Arbeit ; Das ist sein Teil. Denn wer will ihn dahin breingen, Daß er sehe, was nach ihm geschen wird ? (Prediger Salomo, Kap.3, 19―22)
4つの厳粛な歌 マルチン・ルターの独訳 1.人間に臨むことは 人間に臨むことは動物にも臨み、 これも死に、あれも死ぬ。 同じ霊を持っているにすぎず、 人間は動物に何らまさるところはない。 すべては空しく、 すべてはひとつのところに行く。 すべては塵から成った。 すべては塵に返る。 人間の霊は上に昇り、 動物の霊は地の下に降ると 誰が言えよう。 人間にとって最も幸福なのは、 自分の業によって 楽しみを得ることだとわたしは悟った。 それが人間にふさわしい分である。 死後どうなるのかを、 誰がみせてくれよう。 (旧約聖書、ソロモン伝道の書、 第3章 19-22) (聖書 より 引用)
2.Ich wandte mich und sahe Ich wandte mich und sahe an alle, Die Unrecht leiden unter der Sonne ; Und siehe, da waren Tänen, derer Die Unrecht litten und hatten keinen Tröster, Und die ihnen Unrecht täten, waren zu mächtig, Daß sie keinen Tröster haben konnten. Da lobte ich die Toten, die schon gestorben waren, Mehr als die Lebendigen,die noch das leben hatten ; Und der noch nicht ist, ist besser als alle beide, Und des Bösen nicht inne wird, Das unter der Sonne geschieht. (prediger, Salomo, Kap.4,1―3)
2.わたしは改めて見た わたしは改めて、 太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。 見よ、虐げられる人の涙を。 彼らを慰める者はない。 見よ、虐げる者の手にある力を。 彼らを慰める者はない。 既に死んだ人を、幸いだと言おう。 更に生きていかなければならない人よりは幸いだ。 いや、その両者よりも幸福なのは 生まれて来なかった者だ。 太陽の下に起こる 悪い業を見ていないのだから。 (旧約聖書、ソロモン伝道の書、 第4章1-3) (聖書 より 引用)
3.O Tod, wie bitter bist du O Tod, o Tod, wie bitter bist du, Wenn an dich gedenket ein Mensch, Der gute Tage und genug hat und ohne Sorge gelebet ; Und dem es wohl geht in allen Dingen Und noch wohl essen mag ! O Tod, o Tod, wie bitter bist du. O Tod, wie wohl tust du dem Dürftigen, Der da schwach und alt ist, Der in allen Sorgen steckt, Und nichts Bessers zu hoffen Noch zu erwarten hat. O Tod, o Tod, wie wohl tust du. (Jesus Sirach, Kap. 41, 1― 3)
3.死よ、実に苦々しい 死よ、おまえを思うことは、実に苦々しい。 財産を楽しむ 幸福な人にとっては、 また、何の心配もない人、 万事に成功者となった人にとっても、 まだ快楽を味わおうとする人にとっても。 死よ、実に苦々しい。 死よ、おまえが確かにくることは、 ありがたいことだ。 力の衰えたあわれな人にとっては、 また、弱りきった、心配の多い老人、 すべてにあき、もう忍びきれない人にとっても。 くるはずの死をおそれるな、 先人のこと、後にくる人々のことを思え。 (旧約聖書外典、イエス・シラク書、 第41章 1-3) (聖書 より 引用)
4.Wenn ich mit Menschenzungen Wenn ich mit Menschen- und Mit Engelszungen redete, Und hätte der Liebe nicht, So wäre ich ein tönend Erz Oder eine klingende Schelle. Und wenn ich weissagen könnte Und wüßte alle Geheimnisse und alle Erenntnis Und hätte allen Glauben, also, Daß ich Berge versetzte Und hätte der Liebe nicht, So wäre ich nichts. Und wenn ich alle meine Habe den Armen gäbe Und ließe meinen Leib brennen Und hätte der Liebe nicht, So wäre mir's nichts nütze. Und wenn ich alle meine Habe den Armen gäbe Und ließe meinen Leib brennen Und hätte der Liebe nicht, Wir sehen jetzt durch einen Spiegel In einem dunkeln Worte ; Dann aber von Angesicht zu Angesichte. Jetzt erkenne ich' s stückweise ; Dann aber werd ich erkennet bin. Nun aber bleibet Glaube, Hoffnung, Liebe, diese drei ; Aber die Liebe ist die größeste unter ihnen. (Paulus andie Korinther Ⅰ,Kap. 13, 12―13)
4.たとえ、人々の異言を語ろうとも たとえ、人々の異言、 天使たちの異言を語ろうとも、 愛がなければ、 わたしは騒がしいどら、 やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、 あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、 愛がなければ、 無に等しい。 全財産を貧しい人人のために使い尽そうとも、 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、 愛がなければ、 わたしに何の益もない。 わたしたちは、今は、 鏡におぼろに映ったものを見ている。 だがそのときには、 顔と顔とを合わせて見ることになる。 わたしは、今は一部しか知らなくとも、 そのときには、はっきり知られているように はっきり知ることになる。 それゆえ、信仰と、 希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。 その中で最も大いなるものは、愛でる。 (新約聖書、コリント人への第一の手紙、 第13章 12-13) (聖書 より 引用)
Zugabe Dein blaues Auge Op.59,Nr.8 Claus Groth Dein blaues Auge hält so still, Ich blicke bis zum Grund, Du fragst mich,was ich sehen will ? Ich sehe mich gesund Es brannte mich ein glühend Paar Noch schmerzt :das Nachgefühl Das deine ist wie See so klar, Und wie ein See so kühl.
アンコール お前の青い目 クラウス・グロート お前の青い眼は静けさを保っている 僕は眼の奥底まで見ようとする 君は、何を見ようとしているのかと訊ねる 僕は自分が元気なことを知ったのだよ 二つの燃えるような眼が僕を焦がす 名残の感情が僕を苦しめる 君の湖のように澄んだ瞳は 湖のように冷たいんだね (妻鳥純子 訳 161211)
「ドイツ歌曲への誘い」Vol.8 「眠りの精~ヨハネス・ブラームス」真鍋和年氏 講義 ただ今から、「妻鳥純子音楽サロン」を始めます。今日は8回目になります。 皆様方にはこのプログラムを支えていただきまして、ありがとうございます。それからこういった年末の慌ただし中をご出席を賜りまして心よりお礼申し上げます。 今日は前回に続きましてブラームスの勉強をいたしたいと思います。前回の私のおしゃべりは、今日の資料の11ページから載っておりますので、又お暇な時にお眼を通していただければ幸いです。
前回、ブラームスについて、出自、どういうところで生れたか、そういう問題を取り上げました。特にこの当時の音楽家の中では、非常に最下層といいますか、下層階級の出身だったという、それがブラームスにとっては、後々まで大きな影響を及ぼします。それから生い立ちですね。酒場での労働、13歳からハンブルクの歓楽街の酒場でピアノ弾きに従事しますね。それからお父さんのこと。音楽家を志してハンブルクに出ますけれども、非常に努力をされて、いろんな楽器をこなした人ですね。そういうお父さん、それから、これは後から話しますけれど、教育、音楽についても理解のあるお母さんに育てられまして、ハンブルクでコッセル、マルクスゼンと言う良い師匠にめぐり会います。その後20歳の頃にレメーニにめぐり会います。ジプシー系のヴァイオリン弾きです。それからハンガリーから出てきていたヨアヒムですね。この人はユダヤ系の人ですが、その当時ヨーロッパ、特にドイツで活躍しておりました。このハンガリー系の人たちの仲立ちで例のリストと会います。リストとはしっくりいかなくて、その後、シューマンを訪ねます。そしてシューマンに見出されて世に出る─── というそういうことになりました。
前回色々おしゃべりしたんですけれども、その後、門間直美さんですとか、西原稔さん、ベルギーの人ですが、ブリュイール……とか、そういう人の本で少し勉強しましたんで、前回の補足をしつつ進めたいと思います。 ブラームスにつきましては、ブラームスと親交のありましたマックス・カルベック、あるいは、ホイベルガーという人達が、伝記であるとか回想録を残しておりまして、大体そういったものが根拠になって今日、日本で流布しているブラームス伝になっているかと思います。 先程ブラームスが、下層階級の出身であったと言いましたけれども、元々、曾祖父にあたる人が、車大工という、そういう職業、大工さんだったんですね。それからその祖父が、雑貨売り場なんかも併設している旅籠(はたご)と言いますか、宿を経営するようになります。その息子であるブラームスのお父さんヨーハン・ヤーコプは、大変夢想家であって、家業を嫌って音楽を志す。2回家出を敢行して、親を納得させて、音楽家の道に入ります。前回私は、全くの独学でヨーハン・ヤーコプは楽器を習得したという風に申しましたけれども、その後勉強をしておりますと、当時ハンブルクには、Stadt Pfeifer 、Stadt というのは都市です。Pfeifer というのは器楽奏者を指すわけです。そういった街楽士の組合がありまして、そこへ徒弟で入ります。それで5年修行をして、ちゃんと修業証書を得ておりました。
で、それで修得したのが、Violin、Viola、Cello、Flute、Horn こういったものを修めました。後にこのお父さんが職業とするコントラバスは、全くの独学だったそうです。そういう人達は、徒弟、あるいはマイスターとして、何をするかというと、この街の儀式とかで、奏 楽する、あるいは、市民がダンスをする時の伴奏音楽をやったり、更には結婚式とか葬儀の時の演奏、こういったことをヨーハン・ヤーコプはやっておりました。 それからお母さんクリスティアーネですが、彼女の母方というのは、貴族の家柄だったそうです。クリスティアーネの父方は牧師であるとか校長、顧問官という職業に就いていた、と。ただお父さんが早く亡くなって没落してゆく…‥ということだったようです。そういう中でクリスティアーネの妹が先に結婚をして、そこに彼女が同居しますが、その家は下宿屋をしていたんですね。ヨーハン・ヤーコプは、どうもそのクリスティアーネのことをなんとか、という想いもあったらしいんです。こういった本によりますと、その当時ヨーハン・ヤーコプは17歳のお嬢さんと交際していたんだけれども、それを断ち切って、下宿した1週間後に、クリスティアーネに求婚をするという、そんなことだったらしいんです。
ところがその時、ヨーハン・ヤーコプは24歳、クリスティアーネは41歳という、とんでもない夫婦であったわけです。17歳年が違う、お母さんが年上という。ところが、上手くいっていた関係が、後年不和になりまして、多分クリスティアーネは、よぼよぼになって、ヨーハン・ヤーコプはまだまだ元気、色々行き違いがあったんでしょうか─── 特に、ブラームスが大成してから、ブラームスの友人のシュトックハウゼンの図らいでこのハンブルクフィルハーモニーのコントラバス奏者に取り立てられるんですね。そうなってくると、コントラバスの練習を物凄くやらなければならない…・お母さんとしては、家でうるさくてしょうがない、というんで、別居をします。そんなことで、後年、大変夫婦仲が悪くなってしまいます。で、お母さん、17歳も年上ですから早く亡くなるわけですよね。 お父さんは59歳、今度は18歳年下の女性と再婚したんだそうです。こちらの方はうまくいったようです。そんな家庭事情でした。
ただ住んでいた家は非常に貧しかったものですからハンブルクの場末です。翻訳によりますと、「女郎買い横丁」と書かれていますが、売春婦の屯するような、非常に劣悪な地域で育っていた─── ということです。 少しこれからはドイツの歴史についても触れながら進めてゆきたいと思います。
ブラームスが誕生しましたのは1833年です。で、この1833年というのがどういう年かといいますと、「ドイツ関税同盟」というのが成立します。この当時ドイツは、かなり統合が進んでおりましたが、まだ39領邦に分かれていたんです。それぞれが関税をかけて、国内で人が移動したり、商品が移動するのに関税がかかったり、国際的には不利でした。もうフランスやイギリスは強力な中央集権で国内統一市場が出来ていました。ドイツはそうではなかったんです。これというのも、実はドイツ…‥世界史で習っていると思うんですが、1618年に、30年戦争が始まります。ドイツを舞台に30年にわたって、ノルウェーやデンマーク、スペイン、フランスとか、ヨーロッパの各国が参戦して大戦争を行いますね。それでドイツは疲弊してしまう、人口なんかも半減以下ですね。そういう状況でしかもその戦争の終結というのは、これも世界史で習われていると思いますが、ウエストファリャ条約、1648年に締結されます。そのウエストファリャ条約で、その当時の領邦全てが主権を持つ、ということになったんです。314の主権領邦が並立するという、そんな状況になってドイツはものすごく発展が遅れてしまいます。それがこの時代になってようやく、国内の統一市場がないと困るね、という状況になってまいりました。 要するに資本主義がそこまで発展した、それから市民社会が成熟しつつあった、そういうことですね。そういった時代にブラームスは生まれます。
小さい時のブラームスのことが伝えられているんですけれども、6歳の時に、お父さんが弾くピアノの音を正確に言い当てたんだそうです。で、盗み見をしているんではなくて、鍵盤を全然見てもないのに音を聴いただけで言い当てた。小さい時から絶対音感を持っていたということのようです。 そういったことがあって、非常に音楽的な才能がある、ということが親にもわかりまして、それでピアノの先生につけるんですね。まずコッセルという人に7歳で弟子入りをします。この人が、バッハとかベートーヴェンというのを随分ブラームスに教えたようです。それであまりにもブラームスが素晴らしい才能をもっているというので、マルクスゼンという人の所へ連れて行って弟子入りをするんですね。この人はハイドンとかモーツァルトの孫弟子にあたる人でした。
後年のブラームスを見ておりますと、変奏曲(Variation)の名人であることを前回言いましたけれども、このマルクスゼンというのは、「民謡による100の変奏曲」というのを書いておりまして、かなり変奏曲にこだわりがあった人だったようです。
ブラームスは後に、この師匠の変奏曲を自費で出版したりも致しました。それから先程言いました、13歳の頃からハンブルクの繁華街でアルバイトをするようになり、即興演奏の技術を研きます。そして20歳の時にシューマンに出会います。これはヨアヒムが紹介してくれるんです。 それ以前にブラームスはシューマンに自分の作曲した楽譜を送ったりしたんですが、シューマンはどうも、それをそっくりそのまま送り返してきたらしいんですね。以前にお話した中で、シューベルトがゲーテに楽譜を送ったんだけれども、なしのつぶてだったというようなことがありましたけれども、ブラームスも、どうもシューマンに一度無視されているので、あまり気がすすまなかったらしいんですけれども、何とか世に出たい、という想いがあって、シューマンの所へ行き自作をピアノ演奏する。それに感動したシューマンが「新音楽時報」に「新しい道」というブラームスを激賞した論文を発表して、世に出ることができたのです。
10歳の時からブラームスはベートーヴェンとかモーツァルトのピアノ4重奏とか5重奏の演奏会ピアノパートで参加してたようですから、ピアニストとしてはかなり上達してたということです。 それで、シューマンに会いますが、次の年にはシューマンは精神に変調をきたしてライン川に身投げをする、幸い助けられはしたんだけれども、精神病院に収容されてしまう、ということになるわけですね。その留守宅でブラームスはクラーラを助けながら、使い走りみたいなことをするんですけれども、そのうち、クラーラのことが大好きになってしまいまして、この前紹介しましたけれども、残っているだけで800通もの手紙のやり取りがあります。これは、ドイツで出版されていて、それから、200通位を抜粋したものが原田光子さんていう方の訳で出版されています。で、そんな状態の中で友達も「ブラームス君、これではいかんなぁ~」ということで心配しまして、ヨアヒムがデトモルトの宮廷に紹介します。
これはザクセン王国の中にある小さな侯爵領ですが、独立した、主権国家なんですね。 これが、ブラームスの最初の就職です。その後、27歳の時に「新ドイツ楽派に対する宣言文」というのを出すんです。これがヴァーグナー派とブラームス派の対立の発端になります。既にこの頃には音楽理念にかなりの隔たりがあり、音楽外の観念に依拠する新ドイツ楽派に対して絶対音楽の理念を掲げて、ブラームスは論争に打って出ます。ヴァーグナー派というのは、リスト、ヴァーグナーとか、ブルックナーなんかもそうだし、リヒャルト・シュトラウスとかマーラー、錚々たる顔ぶれがいるんですね。ブラームスの方は、ドヴォルザークとかヒンデミットあたりで劣勢といいますか…‥ハンスリックというウィーン大学の先生の、評論家、論客が理論的な支柱だったようです。そういったことで当時のドイツ音楽界、19世紀半ば以降の音楽界を2分するような論争の一方の旗頭にブラームスはなって行きます。
その後、29歳になってWien に出てゆくことになります。それまではハンブルクに居ることが多かったですけれども、ハンブルクではブラームスは本当に評価されないんですね。それというのもやっぱり下層階級、貧民の生まれであるということが影響しているのではないかと思います。何度も、ブラームスは大家になってからもハンブルク交響楽団の指揮者を志望するんですけれども、その都度排除されまして、仕方なくといいますか、ウィーンに出ます。このウィーンに出た頃にビスマルクがプロイセンの宰相になるんですね。で、ブラームスは実はドイツ主義者、といいますか、ビスマルク崇拝者なんですね。相当なナショナリストです。そのビスマルクは、就任して2年後にデンマークとの戦争に打って出ます。デンマークはホルシュタインとかシュレスヴィヒという境界域を支配していたんですが、ドイツ人が結構多いんで、それを取り返そうということで、オーストリアを誘ってデンマークと戦争をする。それに勝利をして、オーストリアと戦果をめぐり領土問題で対立をします。そこで、ブラームスが33歳の年ですが普墺戦争といわれる対オーストリア戦争を始めます。これに圧勝するわけです。ビスマルクの指導下にはモルトケという極めて優秀な軍人がいまして、この人の戦争指導で圧勝する。あるいはモルトケは、非常に新しい考えを持っていまして、当時発達していました電信とか、鉄道も軍事に転用しまして機動力で圧倒的な勝利を収める。更には、1870年に普仏戦争の開戦となり、プロイセンは、当時のヨーロッパの強国フランスとの戦争に勝利するんですね。この普仏戦争というのが、大体実は後から見てみると、史上最初の総力戦の戦争だったと言われてます。要するに、工業生産力とか国民の士気も含めてトータルで国と国とをあげて戦う戦争であったということです。この時にブラームスは「勝利の歌」という、国威を発揚する歌を作っています。この「勝利の歌」は当時のプロイセンの人達から支持されるということになるようです。ニーチェなんかもこの歌に感動して、自分の作曲した曲をブラームスに送って、「批評してくれ‥‥」と。余談ですが、ブラームスが無視したら仲違いをした、というようなエピソードもございます。普仏戦争の勝利ということで、新興プロイセンが、当時のヨーロッパの強国を相手に三連勝します。ブラームスはそういった動きに大いに影響を受けて、ナショナリストとしてドイツ国民のために頑張ろう、音楽で貢献をしようと思っていたようです。大体前半のお話は以上でございます。
休憩中 さっき言いましたけれども、ドイツは元々300余りの領邦主権があって、小さな宮廷も沢山ありました。だから今でも20以上の州立、市立歌劇場がある。ちょっとしたまちには歌劇場、それに付属するオーケストラがあるんですね。本当に小さな2万とか3万レベルのまちでもそういうものを持ってたりするんですよ。西条市もこれだけの11万のまちだから、オーケストラがあってもおかしくないと思うのですが、日本ではそうもいかないんですね。ずっと以前ヨーゼフ・カイルベルトが率いるバンベルク交響楽団というのが来たことがありますけれども、これなんか7万人程度のまちなんですね。それで世界的に演奏活動をしているんです。バイロイトなんかも7万人位の町なんです。大体、50万都市になったら相当な文化施設がありますよね。Stuttgart 60万人、Dresden 54万人、 München は大都市ですね。145万人とか。München はバイエルン王国の首都です。ザクセン王国の首都はDresdenです。そういったところはかなり充実した音楽施設を持っています。 時間が来てしまいました。 __________________ 後半 _________________
それでは、後半に入ります。少し最初に私の方でお話をさせていただきたいと思います。 最初に、せっかく資料を作ってきたんで、資料の8ページをご覧になっていただけますでしょうか。ここにブラームスの肖像があります。上が20歳の頃、シューマンに出会った頃の肖像です。本当に美少年だったんですね。この肖像画、ローベルト・シューマンも気に入っていて、精神病院に入院中もずっとこれを壁に掛けていたそうです。その下の絵は、後年のブラームスです。一杯髭をはやして小太りです。ブラームスは身長が低くてドイツ人としては小さかったんです。163cmだったそうです。Wagnerも同じ位だったそうです。それでもブラームスは大食漢で、大酒飲みだったそうで肝臓癌で亡くなります。行きつけの「赤いはりねずみ」という有名なレストランがあるんです。ブルックナーなんかも行っていたところですが、そこにハンガリー製のワインの樽を置いてガブガブ飲んでいたんだそうです。(会場より、赤ですか?白ですか?)ハンガリーだからどうでしょう!…赤?(注:白のトカイ貴腐ワインが有名です)
下の写真ですが、顔中髭だらけですね。で、この髭についてちょっと触れてみましょう。 この時代の人、例えばカール・マルクスなんかにしても髭だらけですね。あるいはダーウィンなんかもそうですね。調べてみたら、やっぱり19世紀の50年以降にこういうスタイルがものすごく流行ったんだそうです。じゃぁ、その前の18世紀はどうだったか、バロック、ロココの時代です。例えばバッハとかモーツァルトが髭をはやしていたかというと、全然はやしていませんね。その時代は綺麗にそり上げるのが流行だったんだそうです。 この時代は、嗅ぎ煙草が流行していて、鼻から麻薬のように吸引していたので、髭があったら邪魔になってそれが出来ない、そんなこともあったようです。この時代のブルボン王家というのは「禿」の系統で、禿じゃぁ、ちょっと調子が悪いというんで、例の鬘(かつら)をかぶるようになった。それで鬘が大流行して、バッハとかもかぶってますよね。あの鬘に髭は似合わないだろうという、そういうことも言われたようです。そんなことでブラームス、何歳から髭を蓄えだしたか、45才の頃の髭の写真が残っているようですが、中年以降に髭を蓄えだしたのでしょう。 35歳の時に、ブラームスはドイツレクイエムを書きます。これが大ヒットし、ブラームスは大家になります。多分そのあたりで、大家だったら髭位蓄えてもと、思ったのかも知れません。このドイツレクイエムは本当に支持されます。それまでレクイエムというのは大体カトリックのものなんですけれども、ドイツレクイエムというのはドイツ語です。レクイエムは本来ラテン語によるカトリックのミサ曲ですが、ドイツ語で書くというところがナショナリスティック、というか、ドイツ国民の国威発揚、そんなところにつながってきたのかな、という風に思います。
これで圧倒的な成功を収めて、それまではブラームスもシューマンに紹介してもらって出版社がついていたんですけれども、1曲書いて100から300マルク位だったんですが、ドイツレクイエムで1,782マルクいただいたんだそうです。ところがさらに大家になって、シンフォニーになりますと、1番、2番、このあたりは1万5000マルク、もう凄く跳ね上がっています。その時にジムロックという出版社、ブラームスの友人ですけれども、後で紹介します遺書を書いた時にもジムロックに預けたんですけどね。ジムロック以外にもアルバート・グートマンという出版商から、2万マルク出すと、シンフォニー3番を書いている時に申し出がありましたが、ブラームスはジムロックに義理立てをして、それはお断りをしたということです。
そんな風にしてブラームスは、貧しい生まれ育ちだったのですけれども、市民社会の中の音楽家として、出版とか演奏会で稼ぎまして、相当なお金持ちになります。それに伴って各方面から称賛されるようになりまして、38歳の時です。バイエルン国王ルードヴィヒ2世、というのをご存知でしょうか。ヴァーグナーに入れ揚げた、狂った王、狂王。ノイシュヴァンシュタイン城を造ったり、バイロイトの祝祭劇場をヴァーグナーのために造ったのもこのルードヴィヒ2世ですね。後に湖で謎の死を遂げます。森?外がこの時期にドイツ留学してまして、日本に帰ってから「うたかたの記」ルードヴィヒ2世を主人公にした小説を書いてます。そんなバイエルン国王から「学問と芸術のためのマクシミリアン勲章」というのを戴きます。これと同時に、ヴァーグナーにも与えられましたが、ヴァーグナーは気に入らなかった。ブラームスはヴァーグナーより20歳年下なんです。それで一緒か、という風に思ったか思わなかったか。それから41歳で「プロイセン芸術アカデミー」の名誉会員。また、43歳の時にケンブリッジ大学から名誉博士号を授与したいという申し入れを受けます。どうも船が嫌だったと言う話ですけれども、謝絶しています。更に46歳の時に、ブレスラウ大学で、今ではポーランド領ですけれども、そこから名誉博士号を戴いていまして、その返礼に「大学祝典序曲」、なかなか名曲ですが、それを献呈しています。それから55歳の時にはメクレンブルク大公から叙勲を戴いたり、あるいは56歳ではオーストリアの皇帝からレオポルド勲章。レオポルド勲章というのは凄い名誉です。同年、ハンブルク名誉市民。このように35歳で世に広く認められるようになって、どんどんポストも回って来るし、そういう名誉、栄誉が授与されるという、そんなことになってまいります。 45歳の時に初めてイタリア旅行をいたします。その後、病み付きになりまして、亡くなるまでに9回イタリアにブラームスは行ってますね。
かつてゲーテがイタリアに行って「イタリア紀行」という有名な紀行文を残してますけれども、やっぱりハンブルグという、北ドイツの暗鬱な地域に生まれると、光の国への憧れというのは物凄く強かったみたいですね。一回行ってみると、素晴しい、芸術的蓄積もある…‥ということでブラームス、イタリアが気に入ってしまいます。 それから、ウィーンに住んでいた53歳の時です。ブラームスに2歳年下の弟がいまして、この人も、同じマルクスゼン、ブラームスが師事した先生にピアノを習ってたんですが、あんまり根気が続かなくて、一応ピアニストとして色々活動してたんですけれども、偽のブラームス、と言われたようで、この人がブラームス53歳の時に亡くなります。梅毒だったようです。その頃にブラームスは最後の住居に移ります。そこでですね、ブラームスの部屋には、当然ベットはありますね、それから膨大な楽譜、書籍、こういったものがありますが、ベートーヴェンとビスマルクの胸像を大事に置いてあったんだそうです。
もう一点、エリザベート・フォン・シュトックハウゼンという41歳の頃に出会って、好きになった女性の写真を飾っていたそうです。そんな風な部屋でブラームスは過ごします。その後、58歳の年に避暑地のイシュルという所でブラームスは遺書を書きます。その内容としては、ハンブルクとウィーンの貧しい音楽家の為に遺産を役立ててほしい、そういう遺書でした。ブラームスは、大変貧しいところから身をおこしてお金持ちになるけれども、後進を育てる、ということについては、かなり熱心だったんですね。有名な話が、ドヴォルジャークがウィーンの奨学金に応募した時に、ブラームスが選考委員をしていて、その才能を発見して、それからずっとドヴォルジャークの支援をいたします。ドヴォルジャークは、作曲家として大成するんですね。
ブラームス59歳の時に、最後に残っていた肉親のお姉さんが亡くなって、天涯孤独、係累は全くいなくなってしまいます。さらに61歳の年には、親しかったハンス・フォン・ビュローが亡くなります。ビュローはベルリンフィルが1882年に出来た時の初代の指揮者です。ピアニストとしても優秀だったんですけれども、歴史上初めての職業指揮者になります。ハンス・フォン・ビュロー……フォンですから貴族、男爵ですね。そのビュローというのは、奥さんがコジマという、リストの娘なんですが、後にヴァーグナーにコジマを寝取られますね、で、バイロイトの女王みたいに、彼女はなっていく…‥という、そんな話がありますけれども。それがあるんで、ハンス・フォン・ビュローは後にブラームス派に加わります。
親しかったビルロートとか、シュピッタとか、好きだったシュピースというアルトの歌手とか、親しい人がどんどん亡くなっていくんですね。何と言いますか、人生の黄昏(たそがれ)、といった想いを深めてゆきます。63歳の時ですが、3月26日にクラーラ・シューマンが脳卒中で倒れます。その後療養してたんですが、5月20日に亡くなります。これはもうブラームスにとっても大変なショックだったんですね。 クララのお嬢さんに、もし話が出来るようだったら、是非呼んでくれ…‥と伝えてたんですが、死に目には会えませんでした。静養先から四十時間汽車を乗り継ぎ、埋葬する時にようやく間に合って、柩の上に一握りの砂をかけることができただけでした。
そのことがあってブラームスはがっくり気力、体力が衰えてしまいまして、6月中頃にウィーンでフェリンガー夫妻の銀婚式に出た時には、げっそりやつれて、皆がびっくりするほどでした。しかし、その翌年64歳になって3月の頃には交響曲第4番のウィーンでの演奏会にも出かけます。それから、「美しき青きドナウ」を書いたヨハン・シュトラウス2世とはなぜかすごく親しくて、そのオペレッタ「理性の女神」を聴きに出かけますが、その後どんどん体力を消耗して、とうとう4月3日、1897年ですね、亡くなります。 ウィーンの特別な墓地に、ベートーヴェンとかシューベルトのお墓の近くに葬られます。ハンブルクでは、ブラームスの亡くなった翌日、港に停泊している船舶が全部半旗を掲げてブラームスの死を悼んだ…・と、そんなことがありました。そうした最後の頃に、この「4つの厳粛な歌」を作曲いたします。これはブラームスにとっても「白鳥の歌」といいますか、最期の歌、この曲のテーマは死です。ブラームスは11歳、12歳の頃から聖書を手放さなかったらしいんですけれども、第1曲から第3曲までは旧約聖書、第4曲目は新約聖書から採って曲を付けています。カルベックという人が証言していますけれども、ブラームスは63歳の自分の誕生日の時にこれを披露するんです。「私が自分の為に作った美しい贈り物をごらんなさい。」と。ということで、今日の後半は、この「4つの厳粛な歌」ということになります。これは最初に紹介しておいた方が良かったのですが、ブラームスはドイツの民謡から、「眠りの精」とか沢山作曲していて、490何曲とか。民謡ですとか民話、これはやはりナショナリズムと非常につながりが深いんですね。民族の発見といいますか、そういう自覚を持ってくるという時代があります。それまでオーストリアというのは、多民族国家なんです。異民族支配の国家なんです。そういう中から、「ドイツ民族はドイツ民族として」それがビスマルクやプロイセンが主張した、小ドイツ主義、ドイツ人だけの国家でやって行こう…‥ということで、オーストリア帝国、これはハプスブルグ帝国なんですが、これは大ドイツ主義で、バルカン半島なんかの異民族なんかも全部支配しているんです。だからそういう中から優秀な人材をどんどん吸い上げてオーストリアの隆盛をもたらしたんです。例えば、私等も知らなかったけれども、ハイドンHaydnはオーストリアの作曲家ということになってますけれども、実はクロアティア人なんですね。クロアティアなんかもオーストリアの一部だったんです。
その後、民族自決運動の中でどんどん独立しますけれども。 そういう背景を持った民謡、民話、グリム童話なんかもそうです。グリムという19世紀に活躍した人が、そういう古い話を訊ねて民話集を編みます。 どういう根拠があったのか知りませんけれども、「白雪姫」とか「ブレーメンの音楽隊」とか、「赤ずきん」とか、「ヘンゼルとグレーテル」とか、これは皆グリムが発表して世に出したものです。 ブラームスも、民謡とか、そういうものに非常に関心を持って勉強し、そういう民謡集というのは、結構売れました。で、日本の旋律なんかに関する「日本の旋律」という楽譜集が出版されていたんですけれども、そんなものもブラームスは持っていたようです。非常に勉強家で、ドイツだけでない他の国の民族音楽についても勉強していた……とそういうことですね。 大体時間が参りました。バトンタッチいたします。
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