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妻鳥純子

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「ドイツ歌曲への誘い」 vol.9 「遥かなる恋人によせて ~ L.v.ベートー ヴェン」を終えて 13.Jun .2017

  • 妻鳥 純子
  • 2017年6月12日
  • 読了時間: 26分

「ドイツ歌曲への誘い」Vol.9を終えて、しばらくぶりのHPの更新です。 前回は、「遥かなる恋人によせて~L.v.ベートーヴェン」を行いました。 真鍋和年氏の「フランス革命の時代とベートーヴェン」は、大変貴重な講演でした。 ギロチン刑、のことなど演奏する前でしたので、驚きました。ベートーヴェンの家系に魔女として火あぶりの刑に処せられたに人がいた…‥そうです。…‥是非お読みいただきたく掲載いたします。 「ドイツ歌曲への誘い」と銘打っておりますが、Ich liebe dich の堀内敬三訳 をアンコールで歌いましたが、これからもやはり日本語の歌も取り入れてゆきたいと思いました。

講義   真鍋 和年     ♪   フランス革命の時代とべ-ト―ヴェン     演奏曲目     ♫   アデライーデ       Adelaide        ♫   君を愛す         Ich liebe dich       ――――――――― 休憩 ――――――――――     ♪   フランス革命の時代とべ-ト―ヴェン 後半     演奏曲目     ♫   遥かなる恋人によせて  An die ferne Geliebte      ~出演~    アルト  妻鳥 純子        訳詞朗読     真鍋 ひろ子    ピアノ  永井 泰子        ナヴィゲーター  真鍋 和年

――――――――――――――――――――――――――――――

 ♪ フランス革命の時代とベートーヴェン        真鍋 和年講義 皆様、今晩は。ナヴィゲーターをつとめます真鍋です。よろしくお願いいたします。時間が参りましたので「妻鳥純子の音楽サロン」、今日は9回目という本当に吃驚するようなことになってしまいましたけれども、始めたいと思います。今日は「月刊インタビュー」の伊藤さんやら、愛媛新聞の竹下世成記者もいらっしゃいます。月刊インタビューの取材があると思いますけれども、始めたいと思います。 今日はいよいよベートーヴェンということになります。ベートーヴェン、日本では最も人気の高い作曲家、洋楽、クラシックの作曲家としてはベートーヴェンが断トツに人気があると思います。殆どどなたもご存知だと思うんですね。年末の第九の演奏というのが、世界でも類を見ないほど日本では行われております。この文化会館でも、かつて第九をやったことがあるんですね。1996年の12月8日に、アルトは勿論妻鳥先生です。テノールは秋川雅史君かな。伊藤裕子さんがソプラノ。バリトンは芳野靖夫先生に来ていただいて第九を演奏いたしました。妻鳥先生は、アルトという声域なんですけれども、第九では日本全国あちこちで出演されております。凄い指揮者たちと一緒に、渡邉暁雄さんとか、山田一雄さんとか、井上道義さん、そういう方々と第九をやっております。 今日は、ベートーヴェンのLied (歌曲)です。ベートーヴェン、皆さん誰でもご存じなのは9曲の交響曲です。あるいは32曲のピアノソナタであったり、16曲の弦楽4重奏といったものがあります。しかしベートーヴェンのLied(歌曲)について、カウントの仕方が色々あると思うんですけれども、91曲作っているようです。聴いてみたら、今日演奏していただく、Adelaide(アデライーデ)とか Ich liebe dich(御身を愛す)とか、非常に良い曲、聴きやすい曲、我々が思っているベートーヴェンらしくない、愛らしい小曲もたくさんあります。しかし、クラシックファンでも、わざわざベートーヴェンのLied(歌曲)を聴くことはあまりないだろうと思いますので、今日はベートーヴェンのLied を演奏していただきます。 ベートーヴェンは、日本で非常に人気がありますが、中国でもよく知られています。また世界的に広くベートーヴェンは聴かれるようです。やっぱりベートーヴェンの音楽は、ヨーロッパ文化圏以外の人にとっても理解しやすい、あるいは共感しやすい音楽なんだろうと。こちらから近づいて行って入って行かなくても、向こうから入ってきてくれる、というか、衝撃力といいますかね、その迫力に耳を傾けてしまう音楽だろうと思います。これは、私見ですけれども、やっぱりベートーヴェンは大げさに言えば、人類史上最高峰に位置するような音楽家、作曲家だろうと思うんですね。偉大という言葉がふさわしい作曲家。勿論バッハとかモーツァルトといった大天才作曲家がいますけれども、偉大という言葉で表現するならば、ベートーヴェンが一番似合うかなぁ、という風に思うんです。その根拠は、あのフランス革命の激動の中で、ベートーヴェンは聴覚障害を負いながら生き抜き、そして音楽、作曲に全存在を賭け切ったというところにあると思います。要するに時代の激動があれほど志の高い、理念を高く掲げた作曲家を生んだんだろう、という風に感じております。多分平穏な時期だったら、もっと小さな音楽になってしまいそうな気がするんですね。音楽の歴史を見てみましても、やっぱり最初の本格的な近代人ではなかったかと思うんです。いわゆる「近代的自我」なんて言うことを良く言いますけれども、例えば明治時代の夏目漱石なんかが悩んだような悩みをベートーヴェンも悩んだのだろうと思うんですね。そういうベートーヴェンについてブラームスがこんな風に言っています。

「バッハとベートーヴェンは桁が違う、神である‥‥」と。「自分たちは人間である。」という風に言っております。あるいは、ハンス・フォン・ビューローという以前にお話ししましたけれども、ベルリンフィルの初代の常任指揮者ですね。リストのお嬢さんのコジマと結婚して、そのコジマは今度はヴァーグナーの方に行ってしまう、と言うようなことを以前話しましたけれども、そのハンス・フォン・ビューローが、バッハの「平均律クラヴィア曲集」というのがありますね。この Well Tempered Clavier Book 、これはピアノの旧約聖書である、という風に言っています。これに対してベートーヴェンの32曲のピアノソナタ、これはピアノの新約聖書である、と、そんな風に言っております。  そういうベートーヴェン、人道主義的、また英雄的な音楽家と評されておりますけれども、芸術へのひたむきな献身、あるいは聴覚障害を克服して、前人未踏の音楽的頂点に到達した、殆ど神話的な人物だと、同時代においてもそういう評価はなされておりました。後で触れますけれども、伝記では、苦労して、貧乏をして、とか言われておりますけれども、ベートーヴェンの葬儀は、2万人とか3万人もの人が参列した、と伝えられています。 この力強い生命力とかエネルギー、あるいは火山的爆発力なんていう表現もありますし、あるいは思想や世界観を初めて音楽に表現した作曲家である、と。切迫感や緊張感、集中力、あるいは劇的ドラマ性、そういったものは並み居る作曲家の中でも群を抜いていると評されています。  そこでベートーヴェンについて、音楽を聴いただけではわからない身辺雑事のようなことについても、少し親しみが持てるかもしれないですから披露したいと思います。

先ず、ベートーヴェンの容姿。当時のドイツ人としては小柄でした。ブラームスも小柄で164cmということでしたが、ベートーヴェンは167cm説が多くて。165cmと書いているものもありますね。大体その位の身長だったようです。ただ非常に筋肉質で骨格がしっかりしていた人です。  これは証言が残っているんですが、ベートーヴェンの「Fidelio」(フィデリオ)という唯一のオペラがありますけれども、それをWien(ウィーン)で公演した時に、主人公の人フロレスタンを歌ったtenor (テノール)歌手が、ベートーヴェンを訪問したんだそうです。その時丁度、部屋の中で大きな浴用の盥で行水をしていたんだそうですが、一見して筋骨隆々というたくましい身体でびっくりした、という証言がございます。で、かなり腕力も強かったようで、これもどなたかの証言が残っているんですけれども、路上で弟さんと殴り合いをしたこともあったらしいですね。そんなパワフルなおじさんです。 髪は黒です。これは一説では、ベートーヴェン家は、フランドルという、今のフランスの北東部からオランダ、ベルギー地域をフランドル伯が治めていたんですが、その地域の出身です。今でいうと、オランダ領になる部分ですが、ベートーヴェンの先祖の地は。

その地域は、中世ではブルゴーニュ公国の一部だったことがありましたが、婚姻や相続でスペインハプスブルグが支配することになりました。オーストリアではなくてスペインの方が支配していました。それでスペインの血が混じっているのではないか、と言われますが髪は黒です。目が茶色。浅黒い肌で、顔には「あばた」があったと、「天然痘」の痕ではないか書いている本がありました。これも伝記本の表現ですが、「深くくぼんだ眼で凝視をすると、愁いを含んだ眼差しから発散する並外れた精気が感じられた―― という風な証言がございます。  次に、ベートーヴェンの性格でありますとか、行動についてご紹介したいと思いますが、いろいろ沢山ございます。おびただしい逸話が残っています。さっきの「路上の喧嘩」説とかもそうですけれども、奇人,変人、とにかく奇行の多い人だったという風に伝えられております。一つには非常に強い「癇癪持ち」です。気分の波が激しい人だったようです。 近くのものを投げつける、ということもあったようです。 女性に卵を投げつけた、と書いたものもありました。あるいはお弟子さんを取って教えるというのはその当時のピアニストにとったら収入源だったですから、お弟子さんをたくさんとった。有名なと言いますか、名が残っている弟子の一人はツェルニーです。今でも、ピアノをやっている人は、教則本を使っているんだと思うんですけれども。そしてツェルニーの弟子がリストです。ですからリストはベートーヴェンの正統的なピアノの後継者ですね。そうしたお弟子さんに楽譜を投げつけたり、破ったり。これはどうかなぁ…・と思うんですけれども、噛みつかれた…・と言う証言もあります。

その一方で非常に親切で、あるいは無邪気なところがあったようです。  また、表情が大変豊かであった。一方では潔癖症です。手を執拗に洗ったんだそうです。お風呂は頻繁に入るし、洗濯はもう度々したそうです。ベートーヴェンは一生独身だったので、洗濯は自分で良くしたのだとか。だけれども部屋はもう散らかしっぱなし、そんな部屋だったそうです。服装について、後年は非常に無頓着で、浮浪者と間違われて逮捕されたこともある、という人です。  だけれども、後で触れますが、ボンという田舎からウィーンに出た時には、ちょっとおめかしをしてエレガントな恰好をしてたんだそうです。でもだんだん大家になってくるにつれて、よく「哲学的無関心」という言い方がありますけれども、身なりに全く構わなくなります。集中すると何を言っても反応しない、ものすごく集中力の高い、忘我、我を忘れる、あるいは自己陶酔の世界に入っていたそうです。一方で、ベートーヴェンは結婚しませんでしたが、弟、すぐ下の弟カールという人のお子さんのこれもカールについて面倒をみた、と。教育パパもどきで、良い学校に入れたいとか、就職の世話なんかも縁故を頼ってまわります。そのカールをめぐって、カールの実母とベートーヴェンは、非常に仲が悪くて、その親権問題で、何度も裁判を致します。

 結局、ベートーヴェンのもとに置くことになりますが、カールは品行が良くなくて、あげくの果てはピストル自殺を図ろうとしたような人です。でも、首尾よくベートーヴェンのコネで軍隊に入って、その後には行政官として平穏な人生を送ります。このカールについて実の母親と争っても自分が独占しようと。また、このことをめぐって非常に猜疑心が強かった面もがありました。  それからゲーテとの話題ですね。ゲーテとベートーヴェンは対立説とか不仲説とか伝えられていますけれども、実はやっぱり相互に凄い芸術家として尊敬の念を持っていたようです。ナポレオンが1812年ロシア遠征をしますが、モスクワ攻撃が続いている頃に今でいうチェコ、ボヘミアのテプリッツという温泉保養地がある、そこに王侯貴族が集まっている時にゲーテも行っているし、ベートーヴェンも訪れる。そこでベッティーナ・ブレンターノという女性のとりなしで二人は会うことになります。ある日、二人が腕を組んで散歩をしている時に、皇族たちと臣下の集団が向うからやってくるという場面がありました。このまま直進すれば衝突してしまう、どうするかというところで、ゲーテは道端に避けて恭しく道を譲るんですけど、ベートーヴェンはそのまま真っ直ぐ突進してしまいます。すると、王侯貴族達が道を開けてベートーヴェンを通します。それ位、傲岸不遜、というか、貴族やなんかにぺこぺこすることを潔しとしなかった。自分の芸術にそれだけ自信を持っていたということでしょうか。

リヒノスキー、というベートーヴェンのウィーンでの後援者の侯爵がいます。ベートーヴェンに最初にフォーゲル製のピアノ、そしてクァルテット用のグァルネリウス、アマティ製弦楽器セット4丁なんかも与えた人です。時に大喧嘩をしながら最後までベートーヴェンとは交流関係を持った人です。そのリヒノスキーへの手紙で、「あなたが侯爵なのはそこで生れたからであって、侯爵は数限りなくいる。しかしベートーヴェンは努力して今の私に成ったのであり、ベートーヴェンはここに唯一人いるだけだ。」そういうことを言っています。これ、(本を2冊示して)「ベートーヴェンの手紙」が小松雄一郎さんの編訳で岩波文庫から出ています。ベートーヴェンの生の声がこれで伺うことが出来ます。そこにも、その背景の事情あたりが書かれています。  それから、難聴、良くご存知だと思うんですが、ベートーヴェンは耳が聴こえにくい。とうとう最後には完全に聾者、聴覚を失うわけですね。

 そういったこともあって、社交、人付き合いがしにくい面もあったのでしょうが、人間嫌いの一面がありました。  それから、これも有名な話ですが、結構女性が好きでした。「不毛の愛」という表現で書いている本がありましたけれども、どの恋も実ることがありませんでした。ベートーヴェンが好意を持つ女性、みんな身分が違う、貴族であったり、特別な令嬢、そういうところの世界とのお付き合いが非常に深い人ですから、ついついそういうことになったんでしょうが、「月光の曲」なんかのエピソード。ジュリエッタですよね。  あるいはベートーヴェンが亡くなった後、戸棚の中に残された秘密の箱から有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」が発見されますが、同時に「不滅の恋人への手紙」といわれるベートーヴェンが認めた謎の恋文もありました。そんな風に女性とのかかわりも一貫してうまく行かなかった人です。

 ベートーヴェンの思想形成についてですが、初期の若い頃のゲーテ、シラーですね。そのゲーテは、後年には、古典主義という領域に入るんですが、若い頃Sturm und Drang「疾風怒濤の時代」、その頃の考え方と言いますかね、そういった思潮に影響を受けています。それからもう一つ、決定的な影響、ベートーヴェンをベートーヴェンたらしめているのは、フランス革命の影響ですね。 自由(Liberté)、平等(Egalité) 、博愛(Fraternité )  これは前にSchubert (シューベルト)の時に触れましたけれども、フリーメイソンそのものの思想です。フリーメイソンが、「自由、平等、博愛」を唱えました。

Fraternité というのは、日本で「博愛」と訳しますけれども、 Brotherhood(兄弟愛)というのが本来の意味です。…‥ベートーヴェンはそういう考えを強く持っておりました。貴族社会の中にあっても、本音ではそういう身分的なことについて、ベートーヴェン自身は受け入れてはいなかったんだろう、と思います。 そのフリーメイソンですけれども、先程の、自由、平等、博愛、という考えは、実はフリーメイソンに発して、フランス革命を唱導するスローガンになりました。 フランス革命の中で、「人権宣言」が発せられましたが、(本を示して)これも、岩波から「人権宣言集」という文庫本に収録されています。「人権宣言」は、実はフリーメイソンのロッジという拠点で、草案が書かれたようでして、フランス革命には、フリーメイソンの考え方が決定的な影響を与えている…・と。そういうことです。 ほぼ、妻鳥先生の登場時刻になります。少しお待ちください。

     演奏        ♪  アデライーデ   Adelaide        ♪  君を愛す     Ich liebe dich        アルト  妻鳥 純子        ピアノ  永井 泰子

    ―――――――――――――――  後半  ―――――――――――――― そろそろ、後半に入りたいと思います。よろしくお願いいたします。 先程本の紹介の中で忘れていたんですけれども、今日の我々のベートーヴェン像、というのは、大体ロマン・ロランが作ったようなところがありまして、「苦悩の英雄 ベートーヴェンの生涯」という、私が持っておりますのは角川文庫なんですけれども、これ結構読まれています。 例のロマン・ロランの大作「ジャン・クリストフ」、モデルはベートーヴェンです。時代が100年後にずれておりますが。いづれにしても今日のベートーヴェン像に関し、ロマン・ロランの影響は大変大きいものがあります。

 ここで、もう少しベートーヴェンの思想について触れてみます。 ベートーヴェはン、理想主義的なヒューマニスト、というようなそういう思想的な立場ですね。人間の尊厳を非常に大事にする、あるいは独立不羈の精神、こういったものを非常に尊んだ人です。自分自身が芸術の君主であり、自分はそれにふさわしい行動をとる権利があるんだ、ということを言ってまして、王侯貴族が向うから来ても、その間を割って通過してゆく、という行動もそういう信念からきているのかなぁ―― と。  ただ、ベートーヴェン、ボンからウィーンに出て、凄いピアニストだというんで、最高の評価を受けるんです。それで王侯貴族は競ってベートーヴェンとの親交を求める、というようなことになるんで、相当大物だったんです。ずっと後の話ですけれども、ベートーヴェンは、思想的に言えば共和主義者です。君主制論者じゃなくて共和主義。フランス革命の原理を是、とした人です。しかしナポレオンが没落してウィーン体制、メッテルニヒの指導の下に旧体制、アンシャンレジームが復活します。メッテルニヒ体制というのは非常に監視が厳しい体制です。そういう中でベートーヴェン、当時あのフランス革命の前からですけれども、カフェが大流行してまして、そういうところで政治的な論議をしたりする時代になっています。ベートーヴェンもそういうところへ行って熱心に新聞を読むんですね。その情報をもとに国内外の情勢、出来事に精通していて政治的な怒りを持っていた人でした。 基本的に共和主義者ですから不穏当な発言も結構するんです。そういう人ですから、ベートーヴェンには尾行がついていまして、これは危ないことを言っている、ということで警視総監が皇帝に逮捕しましょうかと相談するんです。「それはいかん!」と。こういうことになったようなことがあります。そんな過激な人でした。  一方では皇族との繋がりというのは非常に深かったんですね。後でも触れますけれども、作曲、ピアノの弟子ルドルフ大公とか。この人は、ベートーヴェンが生まれたボンという町を治めたケルン選帝侯マックス・フランツの甥にあたります。

因みに選挙候ですが、これは世俗領主です。一方でケルンには有名なゴシック様式の大聖堂がありますが、そこの大司教が同時にケルンの領主ですね。それが隣の都市ボンの宮庭に住んでいたんですが、そのケルン選帝侯の上位領主は、オーストリア皇帝=(イコール)神聖ローマ帝国の皇帝です。時の皇帝フランツ2世の弟がルドルフ大公。ベートーヴェンと大公とは非常に近い関係にありました。ですからベートーヴェンは、ハプスブルク家と交流があり、芸術家として特別な存在で大きな庇護を受けていた、そういうことです。  良く出てくる名前ですと、ボン時代に出会った音楽愛好家の貴族ワルトシュタイン伯爵。ピアノソナタに「ワルトシュタイン」というのがありますが、これはベートーヴェンが伯から贈られたシュタイン製のピアノで作曲、献呈したものです。最後までお付き合いが続き、ウィーンでも支援を惜しみませんでした。  リヒノスキーとかラズモフスキー。ラズモフスキー、というのは弦楽4重奏曲3曲ですが、ラズモフスキーに献呈したものが有名です。ロプコヴィッツ候とかエステルハージ候。これはエステルハージ家というのはハイドンが仕えていた。これもハンガリーの大領主です。ブラウン伯爵とか、スヴィーテン男爵とか、キンスキー公爵とか、錚々たる伯爵、貴族とのお付き合いが深かったんですね。一方ではで、劇音楽で「エグモント」という曲をベートーヴェンは書いていますが、エグモント、というのはゲーテの原作です。オランダの独立運動の中で亡くなった、反逆者。スペインの圧政に対する反逆者として処刑された人ですが、そのエグモントについてシンパシーをもって音楽作品に仕上げます。

あるいは「プロメテウスの創造物」という曲があります。これバレー音楽です。そのプロメテウスは、ゼウスの命令に背いて火を人類に与えました。そういう圧政とか権力者に反逆する、というテーマがベートーヴェン好みだったようです。しかし、「ミサ・ソレムニス」(荘厳ミサ曲)を書いたときには、予約を取って出版するんですが、伝えられている予約者の名簿を見てみますと、当時のプロイセン国王、ザクセン王、あるいはルイ18世、ロシア皇帝、そういった人たちが申し込みをしておりました。そういった王族、貴族社会との繋がりも大変深い人でした。 宗教的には、ベートーヴェンは一応カトリックに属したわけですが、本当は汎神論的というか、あのフリーメイソン的な神の観念をもっていたようです。これも有名なベートーヴェンの言葉が残されているのですが、「キリストは、磔刑、磔の刑に遭ったユダヤ人に過ぎない…・」といって大変顰蹙を買ったりもします。一方、ベートーヴェンは、ボンの大学で聴講生として勉強する機会がありました。古代のギリシャ思想とかインド思想まで勉強します。ところで、ベートーヴェンのお父さんというのは、ケルンの選帝侯の宮廷に属するテノール歌手だったのですが、余り収入も無くて酒乱で大変貧しい生活を強いられています。ベートーヴェンが宮廷のオルガニストとして家計を支えるようなことをしますが、きちんとした勉強をする機会がなかったんです。それで、ボンという町なんですけれども、先程ケルン選帝侯のときに触れましたが、神聖ローマ帝国という帝国=エンパイア―がかつてありましたが、これは、非常に奇妙な国家組織なんです。元々は西ローマ帝国が5世紀に滅びますね。476年です。東ローマはずっと遅く1453年迄続きますが、やっぱり西ヨーロッパ社会にとってローマ帝国が無くなっているというのは大変困った事態だったんです。で、ローマ帝国の復活を考えます。紀元800年にカール大帝がローマで戴冠した時、神聖ローマ帝国の萌芽がみえまして、西ヨーロッパ、とくにドイツを中心に神聖ローマ帝国なる名称を用いるようになり、各領邦が単一の皇帝を戴き神聖ローマ帝国形成します。その皇帝を選ぶのが選挙なんです。選挙が出来る国王・領主がドイツ圏の最有力者です。宗教的世界の大司教の中にも、世俗的な領主を兼ねて選帝侯になった人がいます。それがケルンですね。ケルンの大司教が選帝侯を兼ねる。後、トリーアとか、マインツ。3つの大司教に選挙権がありました。その他にはボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、伝統的にはこれら7人の大司教なり王が選挙権を持って決めるんですね。時代が下がって15世紀頃からはハプスブルク家がダークホースのように伸し上って世襲的に神聖ローマ帝国皇帝を出しますが、それ以前には、帝国内の小国の王が皇帝に選ばれたりします。結構駆け引きがあって、特定の国があまり強力になることを回避する動きなどもあり、ルクセンブルク大公が神聖ローマの皇帝になったこともあります。そのケルン選帝侯がボンに宮廷を持ってたんです。それというのも大聖堂もケルンにありますが、ケルンはある時期から帝国自由都市です。ケルンという都市が一つの主権単位になります。ですから、そこに拠点を置いていた大司教ですが、世俗領主選帝侯としては帝国自由都市とのバッティングがありますから、ボンに宮廷を構えるんです。そこでハプスブルク家から出た選帝侯マックス・フランツが領主として宮廷文化を育むわけですが、この選帝侯は、非常に開明的な君主で、1786年にボン大学を創設します。神学部、法学部、哲学部、医学部4つの学部を持った大学です。そのボンというのは、戦後西ドイツの首都だったことがありますよねぇ。なんとなくベルリンに近い都市じゃないか、と思うんですが、実際は、スイスに発して、オランダに流れているライン川の左岸にあります。フランスとの間にそんなに距離はありません。ライン川とフランス国境までは150Kmくらいです。そのライン左岸にボンがありまして、いつもフランスの文化とか思想とか、あるいはオランダ、ベルギーから新しい思想が入ってくるという、そういった地域です。当時ベートーヴェンもそうしたボン大学に聴講生として勉強に行くんです。土地柄非常に自由主義的な傾向の強い大学でした。ベートーヴェンも学んだシュナイダー教授というギリシャ文学の教授は、ジャコバン主義者でした。フランス革命の中で過激左派のロベスピエールが率いたジャコバン主義者だったんですね。そこで、フランス革命の思想を大いに吹き込むわけです。

 ローマ法皇からは、そのシュナイダー教授の著作物は禁書に指定されておりました。そういった人にベートーヴェンは学んでおります。このジャコバン主義者、シュナイダー教授は後にロベスピエールと共にギロチンの刑に処せられます。フランス革命1789年にバスティーユの襲撃があって5年後に、ロベスピエールのジャコバン派の独裁、恐怖政治の時代になりますが、1年後にテルミドールの反動と言われるクーデターで、ロベスピエール派が排除されまして断頭台で処刑されるんです。その時にシュナイダー教授も処刑されます。

 ギロチン刑と言いますけれども、これは英語読みですが、ギロチン(guillotine「断頭台、断首台」)という内科医が発明しました。処刑方法は、例えば、1649年にイギリスのピューリタン革命の中で、チャールズ・スチュアートが処刑されるんですが、それは、斧で首を切るんです。それだと切断に失敗したりして、大変悲惨なことになることがありました。 このギロチンは失敗無し、ということで、人道的な処刑方法、と当時は言われたんだそうです。このフランス革命の動乱の中で、一説には4万人がギロチンにかかっている、というんです。それは処刑の効率化ということもあって、そのギロチンという人の発明が普及することになりました。 その最初の試作品を作ったのは、ドイツのトビアス・シュミットという人で、チェンバロを作る職人だったようです。それまでは、フランスに160人の処刑の執行人と、3400人の助手がいたんだそうですが、それが激減、作業が効率化、合理化されますので、今日的に言えば行政改革ですね。ギロチン台は、最盛期にはフランス全土で83台あったというんです。多い日には1000人に余って処刑されたといいます。このギロチン、刃が斜めになっていて、4メートルくらいの高さから40Kg位の重量の刃を落下させます。そんな処刑方法だったのですけれども、ベートーヴェンの時代、フランス革命の時代にはそういう残虐な処刑がありました。

  ベートーヴェンの家系について紹介したいと思います。 ベートーヴェンは、お祖父さんが音楽家としてたいへん優れた人でした。バス歌手です。 ケルン選帝侯の宮廷に採用されますが、音楽的技能も優れているし、人間性も大変評価された人でして、後に宮廷楽長、その宮廷楽団のトップに登り詰めるんです。 ベートーヴェンは、この人の肖像画、宮廷画家が描いた肖像画ですけれども、ウィーンまで持って行って部屋にずっと飾っていました。 ただこの人は、ベートーヴェンが3歳の時にベートーヴェンの目の前で倒れて、其の儘亡くなってしまいます。その立派なお祖父さんのコネでお父さんも、一応テノール歌手ということでボンの宮廷に雇用されます。  お父さんはピアノ、ヴァイオリンが結構上手でして、ベートーヴェンが、物心つく頃から厳しく仕込むんですね。かなりスパルタ教育です。

どうもこのお父さん、モーツァルトの例を見て、自分の天才的な息子も、モーツァルトのように稼ぐ少年に仕立て上げたい、という気持ちを強く持っていたようです。それで、色々と専門的な教育を受けさせようとして、自分が宮廷楽団にいましたから、そこにいる色んな音楽家につけて鍛えるんです。  そのお祖父さんが、さっき触れましたけれども、フランドルからボンに移ってくるんです。そのフランドルの言葉、フラマン語と言いますけれども、Beethoven(ベートーヴェン)というのは「蕪の庭」という意味だそうです。 もうひとつ、Ludwug van Beethoven ……von ではないんですね。van です。 例えば、Herbert von Karajan というのは、ドイツでは貴族の所領を表わす言葉です。 最もKarajanの家も、本当はアルメニアという黒海とカスピ海の間辺りにある地域から 出てきた商人ですね。ドイツで成功して、財力で貴族に連なることができたとか。アル メニア・コニャック、というのがありますけれども。 いずれにしてもドイツでは、" von "というのは貴族を表わすことが多い。

ところが、フラマン、オランダ辺りの " van " というのは、ただ出身地の地理を姓に取り入れるという文化があって、そういうことです。常に、どこそこの出身という意味だったり、地理的なことを意味したりするということですね。 ですから、例えば皆さん良くご存知の Vincent Willem van Gogh (ウィキペディア:オランダ人名のvanはミドルネームではなく姓の一部であるために省略しない。つまり正確にはゴッホでは無く常にファン・ゴッホと呼ばなければならないが、日本ではこの原則が無視されることが多く、ファン・ゴッホもゴッホという呼び方で定着してしまっている。)も、貴族ではありません。この人もオランダ人ですよね。そういった家系の起源があります。で、もう一つ古い先祖、ベートーヴェン家の古い先祖は、15世紀末まで遡ることが出来るようです。  フランドルに住んでいました。「フランドル」というのは、英語で言えば、フランダース。「フランダースの犬」なんていうのがありますが、あれです。  Jan van Beethoven という人がいました。それがベートーヴェン家の遡れる一番古い先祖です。その子孫にアールト ファン ベートーヴェン という人がいたようですが、その妻が1595年の秋に、魔女として「火あぶり」に処せられたという記録があるそうです。これ、ちょっと凄くありませんか。ベートーヴェンの迫力も魔女の家系と知れば凄味が加わるような気がしないでもないですね。

 実際は、魔女あるいは魔女裁判というのは、悪魔とか魔術が信じられた時代の一種の「集団ヒステリー」みたいなものです。あるいは社会病理学的現象なんですけれども、特に16世紀の末から17世紀にかけて、「魔女狩り」が横行した時代があります。 一説には、ヨーロッパでは、その時代に30万人が魔女として火あぶりにされた。それ位じゃぁない数百万人だ、という説もありますけれども、正確に数えるというのも難しいんで、記録に残っている部分から推定するだけなんです。

例えば、その頃ザクセンで1日に137人が魔女として処刑された。また、どの人もこの人も魔女にされてしまい、村が無くなってしまったなんてこともあったそうです。魔女について、14世紀から17世紀までには、魔女裁判の記録や伝承が残っておりますが、18世紀フランス革命の頃、理性の支配といった時代になると終焉するんです。調べてみましたら、それ以前からありましたが、ルター以降の宗教改革による新旧両陣営対立抗争の影響があったようですね。そういった中で異端ということが糾弾される、弾圧される、そういった雰囲気の中で魔女が多数発生する。  その当時、まだまだ科学が未熟です。特に薬ですね。薬草の知識を持った女性とか、あるいは助産婦的なことをする人とか、ある時期までは非常に尊敬されたんですけれども、異端云々の時代になったら、そういった人がターゲットにされる。例えば産婆さん、出産のときに子供が死んだ-- と。これは魔女だからそんなことになったんだ--とか。あるいは天変地異ですとか、奇形児が生まれた--とか。そういったときに、不審な女性、胡散臭い女性とか、変人とか、ガミガミ言う女性とか、他国から来た女性とか、そういった人達が、あれは魔女だということになりました。 更に悲惨なのは魔女狩りというのが推奨されて、魔女裁判、裁判官も正義感を持ってやるんです。そういった中で、やっかまれている村一番の美少女が、魔女にされたり、お金持ちが魔女だと言われて、拷問の挙句、処刑されてしまう、ということが多発します。  魔女と名指しされると裁判にかけられるんですけれども、当然自白なんかしませんから「拷問」にかけるんですね。その拷問は、酷いのは、真っ赤に焼いた鉄の長靴を履かせる、とか。あるいは生爪を全部はがして、さらにそこへ釘を打ったりとか。最初は、手足を縛って、ある本によると、足の指と手の親指を交差してくくって、それで池や川に投げ込む。沈んだら魔女じゃないんです。浮いたら魔女なんです。沈んだら、もう死んでしまうんで、浮いたら拷問にかけられる。--いづれにしても、ひとたび魔女の嫌疑を受けたら最後、死あるのみ、そういう時代があったわけです。  ベートーヴェンの家系から、そういう魔女が出てるなんてことがありました。  あのベートーヴェンの生涯についても、まだまだ喋りたいことがあるんですけれども、妻鳥さんの歌に入ります。  その前に、詩の朗読をいたしますので、お聴きになって下さい。


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