「ドイツ歌曲への誘い」 vol.10 「ゲレルトの詩による6つの歌 ~ L.v.ベートーヴェン」を終えて 29.Aug .2017
- 妻鳥 純子
- 2017年8月29日
- 読了時間: 24分
6月24日にVol.10 「ドイツ歌曲への誘い」「ゲレルトの詩による6つの歌曲~L.v.ベートーヴェン」を終えて、もう2か月余りたってしまった。猛暑に泣かされている。・・・今も30度余りある!!
真鍋和年氏の講義が好評である。是非お読みいただきたい。少し長くなりますが……
♫ 講義 真鍋 和年 ♪ フランス革命の時代とベートーヴェン その(2) ♫ 演奏曲目 ♪ 君よ知るや南の国 ・ Kennst du das Land (Mignon) ♪ 蚤の歌 ・ Aus Goethes Faust
------------ 休憩 -----------
♪ ゲレルトの詩による6つの歌曲 他 ・ 6 Lieder von Gellert ♪ モルモット ・ Marmotte u.a. ♫ 演奏者 アルト:妻鳥純子 ピアノ 渡辺正子 ♫ 訳詞朗読 真鍋ひろ子
「ゲレルトの詩による6つの歌曲~L.v.ベートーヴェン」Vol.10
♪ フランス革命の時代とベートーヴェン その(2) 真鍋和年 講義
それでは、ただ今から「妻鳥純子の音楽サロン」を始めたいと思います。今回、いよいよ10回目と言うことでございます。こう言った「ドイツリート」ドイツ歌曲を聴きましょう、という事業なんですけれども、地味なものですから、ここまで皆様方に支えられて続けられるとは思いませんでした。ここで改めまして皆様に感謝申し上げたいと思います。今回は前回に引き続きまして、ベートーヴェンを勉強いたします。今日のプログラム、見ていただければわかりますけれども、ゲーテの「ミニヨン」、それから同じくゲーテの「ファウスト」の中の「蚤の歌」ですね。それから「ゲレルトの詩による6つの歌曲」と「モルモット」、「モルモット」は馴染みの曲ですので、是非お聴きになっていただきたいと思います。
それでは、前回の復習になりますが、
ベートーヴェンは1770年です、啓蒙主義の時代、あるいはフランスの革命まであとわずか、という時期にドイツのボンで生れました。
ボンはライン川の左岸で、比較的フランスに近い所、100Km位のところに国境があります。そこのケルンの選帝侯(神聖ローマ皇帝を選挙する権限を持っていました)、で同時にケルンの大司教、(カトリックの大司教)が、ケルンの君主でもあって、ボンに住んでいました。マクシミリアン・フランツという人ですけれども、そのお兄さんは、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世、この方は非常に啓蒙的な、先進的な、開明的な君主で、自由、平等、博愛を謳ったフリーメイソンの会員でもありました。ケルン選帝侯も非常に先進的な人で、ボンに大学も作ります。ベートーヴェンはその大学で、音楽教育以外に正規な教育は受けてはなかったんですが、非常に向学心の強い人でギリシャ古典なども学びました。
その学んだ中にシュナイダー教授という方がいらしゃったんですが、この人は後にフランス革命に参加してジャコバン派として、テルミドールの反動といわれるクーデターが起こった時にロベスピエールとともににギロチンの露と消えた——という人です。そういう人の教えも受けた、と言うことで、ベートーヴェンはかなりフランス革命の思想に共鳴をしたところがありました。
ところで、ベートーヴェンのお祖父さんというのが、音楽的に立派な人で、ボンの宮廷楽団の楽長まで登りつめた人です。お父さんもバス歌手のお祖父さんの七光りで、宮廷楽団のテノールの歌手。しかし、お父さんはアル中で生活破綻者です。年少時から大変ベートーヴェンは苦労しますが、早くから音楽的な才能を発揮してまして、そのボンの宮廷に楽師として雇用されるということになります。
宮廷のオルガン奏者ということで家計を支え、二人の弟を養育します。しかし22歳の年にはウィーンに出まして、ピアニストとして、先ず認められます。又、作曲家としても立派な仕事をする、ということになります。
ベートーヴェンは生涯独身で、しかもいつも胃腸の具合が悪いといった病身で、最期の10年間は全く聴力を失うことになります。音楽家にとって耳が聴こえないというのは、致命傷ですけれども、それを乗り越えた、偉大な作曲家として、「第9」を始め、数多くの名曲を後世に残したということです。
そういうベートーヴェンですが、私共が思いますのには、人類史上最高峰に位置する偉大な音楽家、作曲家であった———ということです。その偉大さというのは、やはりあの時代の激動が作ったところがある、と思うんですね。これまた、人類史上最大級の大事件でありました、世の中を180度変えてしまったフランス革命の時代に生きた、というのが、ベートーヴェンをそれほどまでに偉大な芸術家にしたんだろう、という風に思います。このフランス革命の後、ベートーヴェンよりも少し歳が若いんですけれども、1827年にベートーヴェンが亡くなって、翌年1828年に亡くなるシューベルトですね。シューベルトは、ビーダーマイア―といわれる、天下国家に関係なく家庭の平安に閉じこもる、そういうような傾向がありましたけれども、ベートーヴェンは天下国家の時代、フランス革命の時代です。
そのフランス革命について少し紹介します。
硬い話になりますが、ご容赦願います。
フランス革命というのは、典型的かつ明快な近代革命です。あるいは市民革命、ブルジョワ革命とも言われますが、市民が革命の主体として権力を取り、王侯貴族を権力から排除してしまう、そういう革命でしたね。
それに、先行する革命というのは、イギリスの革命です。この当時西ヨーロッパで羊毛業を中心に産業が発展してきておりましたし、あるいは後にワットやスティーブンソンとかの発明が与って産業革命が進行することになりますが、特にイギリスでその社会的な準備が進んでました。そこでは 市民階級が力を持ってきておったんです。で、1649年イギリス革命、ピューリタン革命、とも言われますけれども、国王チャールズ一世が処刑をされることになります。
このピューリタン革命というのは、現在いろんな学説がありますけれども、一つの理解としては、ピューリタンというカルヴァン派のキリスト教徒が主体で、実際は宗教の衣を着た市民革命であるという、そういう理解がなされています。
ピューリタン革命で国王を処刑するけれども、旧勢力も強力で、クロムウェルという軍事の天才が支配していた時は革命政権を維持できていたのですけれども、クロムウェルが亡くなって革命政権は崩壊しまして、前の国王、処刑された国王の遺児チャールズ2世が即位し、王制が復活します。しかし、旧体制の復活は市民階級、産業資本家達には、窮屈で耐え難いということがありまして、追加革命というような形で、名誉革命、Glorious Revolution(1688年)が起ります。イギリス人は、ピューリタン革命は、国王を処刑したので、大変マイナスイメージの受け止め方をしてまして、名誉革命は、血を流さない革命でプラスイメージです。立憲王政はここで確立するわけですね。それが基本的には今日まで続いておりますし、日本の天皇と議院内閣制はこれと似たようなスタイルだろうと思います。その後、1776年ですが、アメリカで独立宣言が発せられます。これは今では、アメリカ独立革命、という風に理解されてまして、日本では独立戦争と教えていますけれども、アメリカでは独立革命、と学ぶようです。
これは、植民地支配から解放されて、アメリカで自由に産業が発展できるようなシステムを作った、そういうことになるかと思います。そのアメリカの独立の時にそれまでイギリスが支配していました。フランスは、そのイギリスとルイ14世の辺りから植民地獲得戦争をしています。カナダの取り合いとかインドの取り合いとか、ことごとくフランスは敗けるんです。アメリカの植民地13州が独立しようという戦いのときにフランスは、相当アンチ・イギリスで梃入れをしまして、それが、ブルボン王朝が財政的に破綻をきたす、フランス革命の遠因ようなことにもなります。フランス革命、1789年、その前夜には、天候不順で穀物が出来なくて、庶民はパンを買うにも事欠く状態でした。で、「パンが買えなかったらお菓子を買えば良い。」とマリー・アントワネットが言い、人々の顰蹙を買ったという伝説がありますけれども、そういう状態の中でフランス革命が起こります。革命の経緯については、話が長くなってしまいますので省略しますけれども、ブルボン王朝はルイ14世の時に頂点を極めます。15世を経て、16世の時に革命が起こるんですが、そのブルボン王朝は、国王が支配するというのは、王権神授説により、神から自分が与えられた権利だ、と主張しているんですね。Divine theory と言うんですが、これは、新約聖書「ローマ人への手紙」の13章に「神は国王を通して人を支配する。」「王への反逆は、神への冒涜である」という王の主張を根拠づける記述があるんだそうです。(クリスチャンの方がいらっしゃるので)詳しいんだろうと思うんですけれども。
それを根拠に支配を正当化していたんですが、「いやいや、そうじゃないよ」と。特に革命の前夜、啓蒙思想家達がいろんな議論をしますけれども、やっぱり、ジャン・ジャック・ルソーが言った「主権というのは人民にあるんだ。支配者には契約で支配を委ねているんだ」と。だから正当な支配をしなかったら君主を放伐しても良いんだ—— というような議論になります。これは、その前段、16世紀、宗教革命の時代に、「モナルコマキ」と呼ばれる一群の思想家がいて暴君放伐論というのを展開する。これ、プロテスタントにもいたしカトリックにもいたんですが、その王がどちらかによって、旧教徒も新教徒も、王の支配が正当でなかったら追い出しても良いんだ、そういうことを言い出します。そういう状況がありました。
そういう意味で、フランス革命というのは、先立つ思想的な背景があります。
その主たる思想家群といいますのか、殆どが百科全書派、エンサイクロペディスト、といいますけれども、「百科全書」の編纂に結集した人々です。
それは、全27巻という膨大な百科全書なんです。そのエッセンスはここにあります、岩波文庫の「百科全書」。抄訳ですが、桑原武夫先生の訳です。
ディドロ、ダランベールとかケネー、ヴォルテールとかモンテスキュー、法の精神、三権分立を説いたモンテスキューですね。あるいはルソーとか、こういった人達が百科全書に「音楽」だとか「歴史」とか。ケネーなんかは「農家」、とか「穀物」という、項目を書いています。
ディドロは「美」、ダランベールは「自然科学」とか「数学」とか、そういう項目で書いている。この人たちは、徹底的な合理主義なんですね。こうした思想が前提にあってフランス革命が興ります。そこで、そのフランス革命、何を打ち出したかというと、「人権宣言」によりますと、
第1条には「人は自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する、—— 社会的な差別は、共同の利益の上にのみ設けることが出来る—— と。
第2条は、政治的団結の目的というのは自然権を、自然権というのは生まれながらに持っている権利ですね、Natural Rights と言う風にいいますけれども、これを保全すること。第3条では、主権は国民に存する—— とこういう風に書かれています。
第6条で、法は「総意」の表明である—— この「総意」と言うのが、あのルソーがしつこく説いていますけれども、ボロンテ・ジェネラルという、Volonté と言うのは、英語で言えば、will (意志)、ジェネラル(Général)と言うのは一般とか普遍。
一般意志というものが存在すると。——
≪参考 ウィキペディアより一般意志(いっぱんいし、フランス語:Volonté générale、英語:General will)≫
その一般意志の表明が「法」である。従って、法には従わなければならない、と言うことになるわけです。
それから第7条では「罪刑法定主義」も宣言しています。要するに法律で、これこれのことをすると処罰されますよ—— と明示されていない限り処罰されない、ということです。
もし法律の明文で定められてもいないのに、恣意的に処罰されたら、もう安心して生活できませんよね。そういうことで「罪刑法定主義」、今の世界では、人権保障のため基準になっているわけです。
第10条には、宗教の自由、11条には「思想、言論、出版の自由」、それから12条、13条は軍事について定めておりますが、結局のところ「シビリアンコントロールが無いとだめですよ、ということも書いてますし、14条には納税の義務。さらには15条を見てみますと、行政、あるいは公務員に対して情報の公開を求める権利。今、色々言われてますけれども、もうすでにこの時代に、そういう知る権利が無いと国民が主権者として行動できない—— というようなことが考えられておりました。
それから、16条は権利の保障、権力の分立、これを憲法で決めなければならない、ということ。17条はこれが重要かと思うんですが、所有権の神聖不可侵性です。所有権は絶対であることを宣言しています。これがまさしくブルジョワ革命たる所以ですね。
そういうことで、フランス革命の時代にベートーヴェンは思想的な影響を受けますし、ベートーヴェンの音楽は、そういう時代の精神でありますとか、雰囲気を体現すると、そういうことになりました。
この辺りで今日前半に歌っていただきます「君よ知るや、南の国」について触れておきたいと思います。これは、2015年の3月20日 文化会館大ホールのステージで、シューベルトとヴォルフのテーマで開催した時に、シューベルトの「ミニヨン」を歌っていただいたことがあります。これはゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの徒弟時代」あるいは(修業時代)とも訳されてますけれども、その中に出てくる薄幸の少女、さらわれて旅芸人の一座に、囲われていた少女が、自分が生まれた、(本当はイタリアの貴族の家に生まれた)南の国を思って歌う歌なんです。
ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーンとかシューマン、リスト、グノー、チャイコフスキー、ヴォルフなどもこの詩に曲を付けております。
それから「蚤の歌」、これはファウストの中でメフィストフェレスという悪魔が歌う歌です。ライプツィヒの酒場で学生たちと騒ぎながら歌う歌です。
ムソルグスキーのものが有名です。あの、妻鳥先生の藝大時代のお友達でバスの岸本力さん、この方にここの大ホールで歌っていただきました。
これはベルリオーズとか、ヴァーグナー、ブゾーニあたりも作曲していると、そういう曲ですね。
この辺りで、妻鳥先生をお迎えしましょう。
——————————————— 後半 —————————————
それでは、後半にまいります。先程フランス革命の硬い話をしましたので、この前、少しリクエストがありました「ベートーヴェンと女性」というテーマで少しだけご紹介したいと思います。
ベートーヴェンは生涯独身を通した人なんですけれども浮名を流すことがなかったわけじゃあないんですね。むしろ、結構多かったんです。
園田高広さんという高名なピアニストのブログを見てたら、「人を魅了する率直で教養ある会話と、ひたむきな理想を追求する姿勢が女性の共感を呼んだ。崇拝者が常にいた。結構持てたんですよ。」というようなことが書かれていました。
で、ベートーヴェンが好きになるのは、たいていピアノを教えている女性弟子です。良い関係になる、というようなことがあるんだろうと思うんですけれども。個人的なことですが、私、好きでテニスをずっとやっているんですけれども、テニスコートでは、テニスが一番上手い奴が一番もてるんですよね。ですから、ピアノを弾く人には、やっぱりめちゃくちゃピアノがうまいベートーヴェンがもてたに違いない、と理屈で良くわかるんですね。ということで、ベートーヴェンは、ある意味大変もてた人です。
ただ、そうした恋の多くは、身分の違いみたいなことで、婉曲に断られるんですね~。これはもう殆ど「寅さん」、車寅次郎の世界、そんな感じがしなくもありません。
15,6歳くらいでしょうか、最初の記録に現れているのが、ボンの名門貴族、ブロイニング家。その一家とお付き合いが深かったんです。長女のエレオノーレに、ピアノのレッスンをしてたんですけれど、彼女のことを好きになってしまいます。しかし、その女性は、ベートーヴェンを袖にして後に医者と結婚するんです。しかし、5年後にウィーンで再会したとき、ベートーヴェンは変奏曲とソナタを2曲彼女に献呈しました。
それから30前のことですが、ハンガリーの名門貴族、ブルンスヴィク家に、やっぱりピアノのレッスンに行ってまして、テレーゼとヨゼフィーネという姉妹にピアノを教えます。そこでヨゼフィーネを好きになりますが、この人はまもなくダイム伯爵と結婚をします。彼女は、結婚生活4年で未亡人になるんですが、その後ベートーヴェンは、13通も恋文を送っている、そういうことがありました。彼女には6曲の変奏曲を献呈しています。
それから30歳の頃に、有名な「月光ソナタ」の一件があり、グィチャルディ公爵令嬢のジュリエッタという女性が、ベートーヴェンに弟子入りをする。伝えられているところでは、ベートーヴェンは、このお嬢さんと結婚したいという風に思ったらしいんですが、うまく行かなくて、婉曲に断られている。で、その女性に幻想曲風ソナタ2曲のうち、一つは「月光」、Moonlight といわれている、これを献呈します。
40歳前後で、テレーゼ・マルファッティという女性と親しくなります。ベートーヴェンの友人の医者の従兄の子、というんですけれども、この家は商人出身ですが、貴族に列せられておりました。その男爵のお嬢さんを好きになります。その時に献呈したのが、「エリーゼの為に」と言われています。テレーゼなのにエリーゼというのは、ベートーヴェン、どうも字が汚いんで、Thereseと書いているのが “ T ”が判らなくてEliseという風に読まれて、其の儘伝わっている、という説があります。
それから42歳の頃です。これは、ベートーヴェンが亡くなってから、弟ヨハンが遺品整理をしていたら、ハイリゲンシュタットの遺書と一緒に出てきた「不滅の恋人への手紙」という有名な手紙があります。これは色んな人が推理をしているんですけれども、どうもアントーニア・ブレンターノという、これも伯爵令嬢ですね。ウィーンの大富豪の奥さん、人妻だったんですね。その人を好きになって、恋文を書いたんだろう…‥という風に、今推測されています。そんな風に非常に恋多い人だったようです。その度に名曲を作ってしまう。これゲーテと殆ど一緒なんですね。ということで、やっぱり凡人が恋をしたって何も残しませんけれども、こういう偉大な人が恋をすると、偉大な作品を世に残す—— ということのようですね。
それから、さっきピアノの話が出ました。
このホールにもベーゼンドルファーBösendorfer というウィーンの名器があります。これは1828年にウィーンでBösendorferという人が創業するんですが、ベートーヴェンの時代というのは、19世紀の初頭、ピアノ制作に沸き返った時代だという風に言われてまして、ベートーヴェンは、ピアノ改良に積極的に役割を果たした人です。
ベートーヴェンは、非常に革新的なところがありましたから、「ピアノはこういうもんだ、これでやって下さいよ。」と言ってもなかなか「うん」と言わなくて「これをああ変えろ、こうしろ」みたいなことで、作曲家、表現者の立場から結構ピアノ改良を指導したようです。
ベートーヴェン自身は、10台以上ピアノを持っていたり、借りていたりしたようです。
そのうち、現在3台が残っています。フランスのエラール、イギリス製のブロードウッド、それからウィーンのグラーフというその3台だけが記念館に残っているようです。
ベートーヴェンの初期、1782年から1802年位までの間は、ウィーンのワルター製の61鍵、5オクターブのピアノで作曲しておりました。
これは、ウィーン式アクションということですから、フォルテ・ピアノということで、今のピアノにも、極めて近いんですけども、音量が無いんですね。今のモダンピアノというのは、打鍵に80g位の力で叩いているそうですが、ウィーン式のアクションだと、30g位です。ほんのちょっと叩けば良かったんです。しかし音量はあんまり大きくなかったという。しかし、そうしたピアノを、モーツァルトも購入して作曲をしたようです。ベートーヴェンもこのウィーン式アクションのピアノで、ピアノソナタで言えば、8番目の「悲愴」、14番目の「月光」、それから17番目の「テンペスト」。これまでは、ウィーンのワルター製、このピアノで作曲しました。
だから、その5オクターブの限界内で作曲してますし、余り大音量も使えない——、そういう制約の中で弾いているんですね。中期になりますと、フランスにエラールというピアノがありますけれども、それをプレゼントされまして、これが68鍵です。
イギリス式のアクションが採用され、また連打できるような装置が組み込まれてまして、そのピアノで「ワルトシュタイン」21番目のピアノソナタ、それから「アッパッショナータ」熱情と言われている、ものすごいピアノ曲がありますけれども、23番目です。これについては、このエラール、高音域、大音量が可能なピアノです、それで作曲をいたしました。ところがやっぱりやっていると、やや微妙なニュアンスが足りないなぁ、とか表現力、いまいちだなぁ、という欠点が気になりだしまして、5年ぐらいピアノ曲を作曲しない時期があります。後期1817年以降にイギリスの‘ブロードウッド’というピアノを、47歳の時、誕生祝に贈られましたが、これに出逢って、例の29番目になりますけれども、「ハンマークラヴィーア」を手掛けました。しかし、そのハンマークラヴィーァ、ベートーヴェンの親しい友人でピアノ製作者のシュトライヒャーという人がいるんです。ナネッテという人と、ご主人のヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーという人と二人でピアノを作っていた、その人からもらったピアノで、1、2楽章を作曲して、3、4楽章は、イギリス製のブロードウッドで作曲したんだそうです。
その後、1826年になって、グラーフという、これはウィーンです。聴覚障害が進んだ中で、そのピアノを借用するんですが、これは弦についても、3本弦とか4本弦が採り入れられていて、非常に頑丈で重い音を特徴とするピアノだったようです。
聴力は無くなったのも、そのピアノだと少しカヴァー出来たらしいですね。で、そのグラーフというピアノ製作者が、ピアノの、職人的な作り方から、ある程度工場的な作り方、40人位従業員を雇って、8部門、年間300台位作りだした—— と。
それまでは職人が一つ一つ作るんです。西条で言えば、年に何台かだんじりを作る、これにどうも似たような感じですね。
その代わり、その一台が物凄く高い。王侯貴族位しか買えない、そういう物でした。それがグラーフの時代からある程度大量生産に入っていきます。それというのも、イギリスで18世紀に産業革命が進んできます。最初は、ワットの蒸気機関、そういう動力機械から始まり伝達機械、作業機械というのが、どんどん出来てきました。スティーブンソンの蒸気機関車などが出来てくるんですね。そういう時代に、ピアノを作ってて、職人ですから、徒弟から始めなきゃあいかん。その後親方になっても「ギルド」に加盟する—— ということです。フランス革命は、近代の産業社会を作る、という役割を果たしたんですが、ギルドを禁止します。解体します。だから、フランス革命以降は、近代的な工業として、ピアノを作るようになった、手仕事から工業製品になります。
そのチャンピオンが、スタインウェイ、ということになります。
ここのホールにもスタインウェイが入っています。
これは、1836年ドイツのニーダーザクセンのシュタインヴェ―グという。Weg というのは道ですね。シューベルトの「冬の旅」なんかによく出てきた、Weg 「小さな道」。
Straße というのは「大きな道」です。そのWeg を 英語に直したら wayですね。Steinというのは「石」なんだけれども、Steinway という風に英語で名乗って、これが世界に広まります。
ニューヨークのマンハッタンに工場を作りまして、マーケットの大きいアメリカへ進出するんです。年間、最初は500台位だったんですが、1800台位作れるようになります。
マンハッタンで大成功をして、後に里帰りしてハンブルグの製造拠点を出して、そのニューヨークとハンブルグの工場で世界のマーケットを賄っている—— というような状況ですね。
それから、ピアノのご三家のべヒシュタインというドイツの名器がありますけれども、 これも1853年に創業されてまして、ピアノのストラディヴァリウス、と言われるような名器です。
大原美術館、大原謙一郎さんという方がいらっしゃるんですけれども、ちょっと仕事の関係でお訪ねした時に、エル・グレコの受胎告知の前にピアノを置いているのですが、これがべヒシュタインです。やっぱりこだわる人は、これじゃないといけない、というようなことを言われる。このピアノは戦前、第2次大戦前は、ものすごい権威があったんですが、ヒトラーとの関係、第3帝国のピアノと言われたのですが、その後爆撃を受けて、工場も破壊されたし、ヒトラーとの関係があまりに近すぎたので、戦後は苦戦をするようになったようです。
ただ、今でも外部資本が入ってやってますけれども、結構愛好している人がいらっしゃるようです。
それからプレイエルとか、エラールとか、そういったピアノが有名どころではありますこれらのピアノは、ベーゼンドルファーなんかもそうですけれども、チェンバロから発展しているんです。ピアノの前身がチェンバロ。英語で言えば、ハープシコード。フランス語で言えば、クラブサン。チェンバロ、ハープシコード、クラブサンは同じものですね。
これは、音の変化とか強弱がつかない、ということで、段々、新しいピアノに席を譲ってます。バッハは、こういったチェンバロで作曲してますが、バッハが生きている頃に、イタリアのバルトロメオ・クリストフォリという人が、小さな音も大きな音も出せる、クラヴィコード風チェンバロ、ピアノ・フォルテというのを開発します。これが今のピアノの直接の先祖です。
これについては、最初はやっぱり完成度が低かったんでしょう。バッハは、これはいかんなぁ、という風にあまり評価していなかったという話が伝わっております。これがどんどん、近代産業社会の中で、改良されて、専門的なことは良くわかりませんけれども、アクションだとか、ダンパーとかとか、そんな装置が加わって、今のような完成形が出来ました。
そういうようなピアノの歴史、この中でベートーヴェンの果たした役割というのは、極めて大きいものでした。
前回もご紹介しましたけれども、ベートーヴェンの32曲のピアノソナタは、ピアノの新約聖書、と言われています。旧約聖書はバッハの「平均律クラヴィア―曲集」だとの評価があります。
後半歌っていただく歌ですが、後に歌っていただく歌の方から紹介します。「モルモット」という歌です。
モルモット、というのは、皆さんご存知の通り、ペットに飼っているような天竺ネズミ。実験用に使ったりする。実はあれとは違うんですね。本当は「マーモット」リス科の動物なんです。
まぁ、体長40cmから60cm位。重さが、3kgから8kg位、体色は茶色で、アルプスやピレネー山脈に居て、日本にはいません。
この曲が日本に入ってきた時に、翻訳する人がわからなかったんだろうと思うんです。どうして間違ったのか調べてみたんですが、資料がありませんでした。が、恐らくそのマーモットという動物を知らなかったので、知っている「モルモット」と訳したのかと。これはゲーテの詩です。旅芸人の少年がマーモットを使って芸をさせる、そういうことなんです。フランスにサヴォアと呼ばれる地域があります。レマン湖とか、モンブランその南方にサヴォア県と、オートサヴォア県、オートというのは英語でhighという、高地サヴォア県があります。中世のサヴォア伯領というのは、今のイタリアのピエモンテ州からフランスのサヴォア地方です。ピエモンテ州の中心都市はトリノです。食に詳しい人だったら、ブラ、というスローフード運動のメッカのまちもピエモンテ。白トリュフとか、アスティワインで有名なところです。この地域、今日的には、結構発展してまして、特にイタリア側は、自動車のフィアット(Fiat) の本拠があったり、事務機器のオリベッティ(伊:Olivetti)の本拠があったり、サッカーで言えば、ユヴェントスという強力なチームがあります。そういうトリノがサヴォア公国の中心都市であったんです。ただフランス側は、高地で、オートサヴォア県などは、平均1000m以上の高地です。非常に貧しい地域で、子供たちは教育も受けない、ただそこにいるマーモットを捕まえて、芸を仕込んで、ハーディ・ガーディという手風琴を携えて旅回りをします。以前に取り上げましたシューベルトの「冬の旅」の終曲、第24曲、 Der Leiermannの中のLeier というのが、そのハーディ・ガーディ。そういったものを使いながら、マーモットに芸をさせて都市の市とかに出没したようです。
それをゲーテが詩にしているんです。
日本でも、堀内敬三さんという作詞家、詩人がいらっしゃいますが、この方はこの詩を「旅芸人」と訳しています。しかし、一般には「モルモット」ということで、通用してます。この歌に水町京子さんという、東京女高師、今のお茶の水女子大を出た方で尾上紫舟という歌人のお弟子さんが「花売り」という詩をつけました。それは、戦後小学校6年生の教科書に出てたんで、聴いていただいたらわかると思いますが、結構印象深い歌です。これは元の詩とは全く関係のない、「はめ込み唱歌」といういわば音楽に触発され、原詩とは無関係な歌詞をつけたものですが、非常に日本的な良い詩がついています。
それからもう一つ、「ゲレルトの詩による6つの歌曲」というのを演奏していただきます。
これは、妻鳥先生ご出身の東京藝大にゆかりの深い曲です。明治18年、まだ文明開化の時代に、伊沢修二という、文部官僚、非常に優秀な官僚ですけれども、これからは日本でも音楽を学ばせなければいけない、ということで、アメリカに留学して、教科としての音楽を日本に導入、定着させようとするんです。この人が立ち上げた音楽取調掛が、東京音楽学校になって、東京藝大になる。一方では、師範学校を作ります。それが後に東京高等師範学校になって、今は、筑波大学になっています。
東京音楽学校では、日本の音楽教育を担わそうということで、音楽の先生を養成します。それと演奏家、作曲家、そういった専門家を養成しますが、その伊沢修二さんが音楽学校、師範学校を同時並行して創設して校長になったりしますので、現在も筑波大学には音楽コースがないと思います。
藝大が日本の音楽教育を担当することに最初からなってたんで、今でもそういう名残があります。
その明治18年に音楽取調掛、取調所とも言われますが、第1回の卒業音楽会で、この「ゲレルトの詩による6つの歌曲」の中の第4曲「自然における神の栄光」を、管弦楽伴奏による合唱で歌います。これは「君は神」というタイトルで里見義という人が原詩と関係なく天皇を讃える歌詞を付けたものになっていました。
「君は神、現人神(あらひとがみ)、あめつちしろしす…」このようにベートーヴェンが天皇を讃美する歌になっていました。天皇制国家を作らなきゃいけない、という思いから、国民統合の為に天皇の権威を強化して行こう、そういう時代です。明治の支配層、伊藤博文などは、天皇は一つの利用価値、というと不敬に当たりますけれども、後に美濃部達吉が批判されました天皇機関説を採っていました。天皇は国家の一つの機関であることは、明治の国家を設計した人は解っている、しかし庶民にたいしては、「天皇は神だ」生き神様だと教えます。
それが暴走して、理性的コントロールが利かなくなってきて、太平洋戦争までくるわけですね。
そのように明治国家形成の天皇を讃える歌として、このベートーヴェンが使われた—— ということがありました。それでは、「ゲレルトの詩による6つの歌曲」「モルモット」2曲を演奏していただきましょう。
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