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妻鳥純子

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ドイツ歌曲への誘い vol.12        「夕べの想い~W.A.モーツァルト」

  • 妻鳥 純子
  • 2018年2月18日
  • 読了時間: 21分

昨年12月9日に行った「夕べの想い~W.A.モーツァルト」のドイツ歌曲への誘いの、真鍋和年氏の講義「モーツァルトという奇蹟、その2」を掲載いたします。

(171209 ドイツ歌曲への誘い vol.12 前半)

皆さん、今晩は。年末の慌ただしい中をお運びいただきまして、ありがとうございます。

今日は前回に引き続きまして、モーツァルトがテーマです。前回モーツァルトについて、色々お話いたしましたけれども、その続きということです。「モーツァルトという奇蹟」という大げさなタイトルを付けていますが、「奇蹟」というところから始めたいと思います。 

モーツァルトは、天才中の天才です。超天才と言われる、音楽の分野では人類史上最高の天才だと思います。それで、何故奇蹟か。前回もご紹介いたしましたけれども、ゲーテですね。あの文学者のゲーテが「モーツァルトのような現象は、何とも説明のつかない一つの奇蹟である」と言っております。またR.シュトラウス、19世紀後半から20世紀の前半に活躍、ナチス時代には帝国音楽院の総裁をしていた作曲家ですけれども、「バッハの殆ど直後、モーツァルトの奇蹟が起こった――」ということを言っています。バッハが1750年に亡くなりますけれども、モーツァルトが1756年に生まれる。―― ということで、バッハの直後、モーツァルトの奇蹟が起こったと。シュトラウスは、バッハも一つの奇蹟だという風に考えていたことが伺えます。それから20世紀にかかってますけれども、マックス・レーガーというドイツの作曲家がいたのですが、「この大地が見た音楽的奇蹟の最大のもの、それが、つまりモーツァルトだ」とそういうことを言っております。

 それから、エドヴィン・フィッシャー、ご存知の方もおられると思うんですが、往年の名ピアニストですね。フィッシャー、シュナーベルとか、そういう前時代の大ピアニストの一人です。フィッシャーは「子供のような無邪気さと、すでに老境にあるものの英知が合一した一つの奇蹟である」と。「子供のような無邪気さと老境の英知」それが一つになった奇蹟である、という風にモーツァルトを讃えています。

 それから、モーリス・チリエという、これは20世紀のフランスの作曲家。私もあまりよく知らないんですが、「奇蹟の存在を前にして自問自答などするものではない。彼に誘われるままに従って行けば良い」そういう表現でモーツァルトを讃えております。それから以前に、皆様と一緒に勉強しましたブラームス、ヨハネス・ブラームスです。ブラームスは「フィガロの結婚の曲は、全て私には奇蹟だ。これほど完璧なものを生み出す人間がいるなんて、絶対に理解できない。このような作品は誰にも書けなかった。ベートーヴェンにも」という風に言っております。ブラームスは、今日妻鳥先生が解説を用意してくださってますけれども、あのケッヘルという、モーツァルトの作品目録、作曲年代順に初めて整理した人です。そのモーツァルト学者のケッヘルとブラームスは親しくて、モーツァルトは身近な存在でしたから、モーツァルトのことを深く学んでいます。そういうモーツァルトの「天才」をどう理解すればよいのかということです。前回も触れましたが、まず、聴覚が極めて鋭い、こんな聴覚を持った人は、殆ど他にはいないだろう―― ということです。

 絶対音感、あるいは相対音感。ほんの幼い頃にヴァイオリンのチューニングが八分の一音違っていることを指摘し、まわりを驚かせたことをご紹介しました。それから音楽的な感受性が極めて豊かで、鋭かったというエピソード。幼い頃トランペットの音で青ざめて震え出した、そういう感受性の持ち主でした。音楽的能力においても極めて優れていた―――と。5歳にしてクラヴィアソナタ、今で言えばピアノソナタを作曲しましたし、8歳にしてシンフォニーを作りました。11歳でオペラです。長じてから作曲するときは、もう頭の中で曲ができているから、それを取り出せば良い――― というレベルでした。あるいは最晩年に作ったオペラ「ティ-トの慈悲」、これはたった18日で、急がされたということもあるんですけれども、作ってしまいました。それからモーツァルト自身、ピアノの名人ですし、ヴァイオリンの名手でした。

次に音楽的な記憶力ですね。記憶の全般かどうかわかりませんけれども、少なくとも音についての記憶はものすごくすぐれた人でした。14歳の時イタリア法王庁の礼拝堂で、門外不出の曲を覚えて帰って、宿に帰ってから譜に仕上げた。・・・と。それも9つの声部に分かれている、演奏時間で12分位の曲を全部覚えて帰った。もう一回、数日後に出かけて行って若干の修正はしたんだそうです。それが世に出てしまいまして、普通だったら、門外不出を持ち出したのですから、お咎めを受ける、破門されるような事態なんですが、逆に褒められて勲章をいただいた、そういうことがございました。

それから学習能力が物凄く高くて―――少し学べばたちどころに習得できたことです。旅の中で様々な第一級の音楽人と出会う中で、彼らがもっている音楽理論、技法を全部学んでしまう――― そして古典音楽の様式を集大成する、そういう人でした。このようにモーツァルト自身の持って生まれた天賦の才能。これが一つの奇蹟をおこした基本的な要素です。

次に、環境があります。音楽的環境ですね。特に、レオポルド・モーツァルト、お父さんですが、優れた音楽家、作曲家ですし、ヴァイオリニストでもあるし、クラヴィアの名手でもありました。アウグスブルグという町に生まれた大変な秀才で、ザルツブルグ大学に学びます。中退はするんですけど、非常に教養の高いお父さんでした。ヴァイオリンの教則本、この時代の3大教則本の一つで、ヨーロッパで広く使われた教則本を書いた人です。そのお父さんからモーツァルトは音楽の基礎、楽器の演奏を学びます。それから5歳上のお姉さん、ナンネル、ナンナルとも表記されますが、このお姉さんもクラヴィアの名手でした。小さい頃はお姉さんとモーツァルト、二人の神童が、旅の中でびっくりする様なクラヴィア演奏を聴かせた、という。その5歳上のお姉さんが練習しているのを聴いて学んで、追い越してしまう、と。これはやっぱり、モーツァルトにはかなわない―――ということで、お姉さん徐々に演奏活動から引いてしまう――― というようなことになりました。

 更には、時代というのがあったと思います。このモーツァルトが生まれたのが1756年1月27日で、亡くなったのが1791年12月5日です。その時代というのが、近世から近代への過渡期でした。モーツァルトが亡くなる2年前に、例のフランス革命が勃発しております。そういうフランス革命にむけて、世の中がどんどん変わってゆく、いわゆる市民社会の発展、あるいは、産業資本家、ブルジョワジーが支配的な力を持ってくる、そういう時代でした。音楽も、従って王侯貴族の音楽から市民の音楽に移る、そういう過渡期ですね。モーツァルトは、ザルツブルグの大司教シュラッテンバッハ、この人はモーツァルトの理解者でしたが、に庇護されてイタリアをはじめあちこちへの演奏旅行に出かけることもできました。しかしシュラッテンバッハが亡くなって、次のコロレド大司教が着任すると、主君の理解を失い、召使い扱いになります。分に甘んじろということで、モーツァルトはかなり苦労し、最終的には衝突、尻を蹴飛ばされて館から追い出されてしまい、フリーの音楽家になります。そういう時代です。

 その旅、モーツァルト自身も、旅をしないと駄目だ、ということをしばしば言ってますが、旅の中で学ぶことが極めて多かったんですね。この時代というのが、幸運にも、モーツァルトの奇蹟を生む背景になりました。どちらかというとヨーロッパ、この時代は相対的安定期でした。その前の世紀、17世紀、1618年から1648年まで、ドイツに30年戦争、ヨーロッパの殆どの国が参戦してドイツを舞台に大戦争をするんですね。世界大戦です。これにドイツが蹂躙されて、1600万人の人口が1000万人に600万人も減る、という事態になります。1648年にウエストファリャ条約、という条約が結ばれます。これの理論的な背景ですが、例のグロティウスが「戦争と平和の法」という著書を表したことで国際関係のルールが成立するんですね。

 それからモーツァルトの時代、モーツァルトが生まれる少し前、ハプスブルグ家にマリア・テレジアという女性が生まれます。当時、女性はヨーロッパの多くの国では国王になれない――― 女性には国土を支配するための土地相続権が無いというサリカ法、という法律が生きていました。これは、プロイセンを通して明治国家の天皇制にも継承されます。

(注(ウィキペデイアより引用:サリカ法典…・サリカ法典(サリカほうてん、羅:Lex Salica) は、フランク人サリー支族が建てたフランク王国の法典。ラテン語で記述されており、編纂にあたってはローマ人の法律家の援助を得たと言われているが、ローマ法とは異なり、金額が固定された金銭賠償(贖罪金)に関する規定が主であり、自力救済を原則としていたことにも特色がある。

フランス史の中で、女帝は聞いたことがないでしょう。神聖ローマ帝国ですと、ハプスブルグ家の当主が領土を相続すれば、イコール神聖ローマ帝国の皇帝になるはずですけれども、マリア・テレジアは女性です。父であるカール6世には、男子がいなくて、マリア・テレジアしかいない。しかし、どうしてもこの娘に王権を継承させたいということで大変揉めて、ロレーヌ侯(ドイツ語ではロートリンゲン侯)と結婚させて、(この時代には珍しく恋愛結婚だったんだそう)名目上亭主に神聖ローマ帝国を継がせます。しかし、実際にはマリア・テレジアがオーストリア、あるいはハプスブルグの支配者でした。

こうした経緯があってオーストリア継承戦争(1740-48)となり、発展著しいプロイセンが干渉戦争を始めます。モーツァルトが生まれる前のことです。生まれてからも、7年戦争(1756-63)という戦争があります。この7年戦争は、イギリスとフランスが、アジアやアメリカを舞台に、植民地をめぐって大戦争をする。しかしヨーロッパでは比較的平穏でした。その相対的安定期にモーツァルトは、ヨーロッパ中を大旅行をする。それで音楽家としての力をつけます。

 そういう過渡期に生きたモーツァルトなんですけれども、1778年、モーツァルト22歳、お母さんと一緒にパリに行きますが、そこで母が亡くなります。その時期、悲しみの中でお父さんに宛てて手紙を書くわけですが、その中でこんなことを言ってます。

 「もう、ご存知かもしれませんが、あの外道の大悪漢ヴォルテールが、犬畜生のようにくたばりました。当然の報いです。」

 ヴォルテールというのは、フランス革命に大きな影響を与えた啓蒙思想家で、封建社会、あるいはカトリック体制を合理精神の立場から批判をした人です。自由主義者です。弾圧を逃れイギリスに亡命をして、イギリスの名誉革命以降の立憲君主制を学び、フランスに帰国、政治活動をした人です。このまさしくモーツァルトが求めていた自由を唱導した人を、犬畜生のようにくたばった、というんで、何となく、モーツァルト、そのあたりが政治的音痴で判っていなかったかな、という感じがいたします。

 そういうモーツァルトであります。この辺りで妻鳥先生の歌に入りたいと思います。

 最初3曲歌っていただきますが、「静けさが頬笑みながら」K.152、これは19歳の若いころの作品ですが、非常に良い曲です。一連のヴァイオリン協奏曲を作った時期です。非常にのびやかで明るい。「すみれ」は前回歌っていただきましたけれども、ゲーテの詩に曲を付けたものですね。これは29歳。「クローエに」、これは31歳になってから、モーツァルトの円熟期、弦楽5重奏曲とか、ドン・ジョヴァンニを作った、そういう頃の作品です。

それでは、妻鳥先生にお渡ししましょう。

   真鍋ひろ子   訳詞朗読

   妻鳥純子    アルト

   渡辺正子    ピアノ

 ♪ 静けさが頬笑みながら   ・Ridente la calma

 ♪ すみれ          ・Das Veilchen

 ♪ クローエに        ・An Chloё

それで、今日は少し趣向を凝らしまして、渡辺先生にピアノ演奏をお願いしたいと思います。ここにあります通り「キラキラ星変奏曲」です。

 これは、モーツァルトの変奏曲の、傑作です。変奏曲 Variationですが、メインテーマがあって、そのテーマについて、次々とリズムを変化させたり、装飾音で変化を付けたり、あるいは調性を変化させたりして展開してゆく…という曲です。

 多分、作曲技術の中で変奏曲というのがしっかり出来てると、シンフォニーやあるいはソナタとか、非常に統一感が出てくるのかなぁと、私、素人なりに思っているんですけれども。あのベートーヴェンの「エロイカ」の中でも素晴らしい変奏曲が使われていますし、言ってみれば「運命」だって、一つの簡潔なテーマを変奏展開しているんですよね。

そういう変奏曲、この変奏曲を聴けば、モーツアルトがいかに天才であるか、良くわかっていただけると思ってお願いしたものです。

そこで、「キラキラ星変奏曲」なんですが、元の曲はフランスの18世紀末、モーツァルトの頃の流行歌 chanson です。「Ah, vous dirai-je, maman」「ママ、きいてちょうだい」という、娘が母に恋の悩みを相談する、おませな女の子の心を歌ったchanson なんですが、それをイギリスのジェーン・テイラーという人が「Twinkle, twinkle, little star」と歌詞を変えまして、(マザー・グースにも入ってます)これを日本でどなたが訳したのかよくわかりませんが「きらきら星」として小学校の教科書に取り入れられて普及した―― と。そういう曲です。

ウィキペデイアより引用

『きらきら星変奏曲』(きらきらぼしへんそうきょく、独: 12 Variationen über ein französisches Lied "Ah, vous dirai-je, maman" )ハ長調 K. 265は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1778年に作曲したピアノ曲である。原題を直訳すると、『フランスの歌曲「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」による12の変奏曲』となる。

 そのモーツァルトについて、さっきエドヴィン・フィッシャーの「モーツァルトは奇蹟だ!」というところで触れましたけれども、エドヴィン・フィッシャーと同時代人に、アルトゥール・シュナーベルというピアノの名手がいました。東欧出身のユダヤ人です。晩年のブラームスが、シュナーベルを、将来最も恐るべき天才だ、と評価したそのシュナーベルが「モーツァルトは、子供にはやさしすぎるが、大人には難しすぎる」と微妙なことを言っています。渡辺先生も随分苦労された――― と聞いてますけれども。

演奏していただきます。12の変奏になってまして、リズムや装飾音が変化しながら、第8曲ではハ短調に転調します。その絶妙な変わり方も注意して聴いてください。2拍子、4分の2拍子ですが、最後は4分の3拍子になります。そのあたりも注意してお聴きください。

 それでは、渡辺先生、お願いします。

  ♪ キラキラ星変奏曲  渡辺正子 ピアノ演奏

(171209 vol.12 ドイツ歌曲への誘い…・・後半)

そろそろ後半に入りたいと思います。お茶召し上がりながらお聞きになってください。私のくだらないお話ですので。

モーツァルトについてですね。日本での受容といいますか、割とモーツァルトが入ってきたのは遅かったんではないかな、と。ベートーヴェンなんかよりも遅いと思います。確かに明治20年に音楽取り調べ掛、今、これが発展して、妻鳥さんが学ばれた東京藝大になるわけですけども、そこで明治20年にシンフォニーの39番変ロ長調の一部を演奏したという記録があります。しかし、なかなか明治時代には受け入れられなくて、あの森鴎外でさえも、モーツァルトというのは、子供や女性の慰みものであると軽く見ていたと伝えられています。

鴎外はライプツィヒ大学で学びます。ここは、メンデルスゾーンがライプツィヒ音楽院の創始者で、滝廉太郎も留学したところです。鴎外は、その後ドレスデンへ行きました。これもライプツィヒのすぐ近く、ザクセン王国の首都です。それからミュンヒェンにも行きましたし、ベルリンにも行って「舞姫」に出会ったりしますよね。ルードヴィヒ2世という、バイエルンの王で、ヴァーグナーに心酔してバイロイト音楽祭なんかの支援をした、あるいは、ノイシュヴァンシュタイン城の建設という時代遅れの支出で、国家財政を傾けた人ですが、その王が森鴎外の留学中、1886年に湖に入水して亡くなります。それを鴎外は「うたかたの記」という、小説にしています。関心があったら「うたかたの記」というのを読んでみてください。という訳で、独墺の文化に直に触れていた森鴎外でさえも、モーツァルトをあまり理解してなかった。で、やはり、日本におけるモーツァルトへの関心は、私らもそうなんですけれども、小林秀雄の衝撃というのが大きかったんだろうと思います。小林秀雄さんが、昭和21年です、終戦直後「モーツァルト」という作品を書きます。それが大きな衝撃になりました。小林秀雄さんの「モーツァルト」にこんなこと書いています。「もう20年も昔のことを、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の、或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でも意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬のようにうろついていたのだろう…」こんなことが書かれた有名なモーツァルト論があります。その衝撃というのが、日本人が広くモーツァルトを聴くようになった切っ掛けだったんだろうと思います。因みに、小林秀雄さんの実家は、お父さんが、ダイヤモンド加工の職人で、サファイヤのレコード針を最初に作った人なんだそうです。音楽には比較的馴染みがあったようですね。それで中原中也の詩を以前に紹介したことがありますけれども、中也と小林秀雄は非常に親しい友人同志でした。中原中也はよく西洋音楽を聴いた人、理解した人です。それから友人の大岡昇平。大岡昇平さんは、スタンダリアン、スタンダールの心酔者です。「わがスタンダール」という、文庫本が講談社から出ています。あるいは、グループに河上徹太郎さんがいますけれども、この人は、文芸評論と同時に音楽評論をやった人です。彼らが崇拝したスタンダールが、歴史的にいわば最初のモーツァルトの心酔者だったということです。小林秀雄さんはそう書いています。1814年、スタンダールは、モーツァルトが1791年に亡くなって暫く経ってのころですが、一冊の本を書いています。処女作です。「ハイドン モーツァルト メタスタジオの生涯」、これは日本でも紹介されてます

前半の話の中で、モーツァルトは旅で多くを学んだということを申し上げました。モーツァルトは、35年の短い生涯の中で、3720日、旅にあった――― と。10年と2か月と8日なんだそうです。35年のうち、10年旅をしていたモーツァルト。旅と言えば日本で我々が思いつくのは、松尾芭蕉です。「奥の細道」を苦労を重ねながら旅をした、と言うことですが、これは150日の旅ですから、比べ物になりません。モーツァルトの時代は、まだ鉄道ができていません。ライプツィヒ、ドレスデン間に鉄道ができたのは1837年です。あのシューマンは鉄道を利用していますが、モーツァルトの時は馬車ですね。2頭立てとか4頭立ての馬車。所謂駅馬車です。定時に出るんですけれども、それに乗って旅をします。6歳になる前から、近くのミュンヒェンまで140Km 位、ザルツブルグから旅をします。6歳になってからウィーンに出て、例のマリア・テレジアに会います。宮廷でマリー・アントワネットが転んだときに助けてあげたとか、「僕のお嫁さんにしてあげるよ」なんてことを言ったとか、そういう旅がありました。その後、7歳の時に西ヨーロッパ大旅行をします。7歳で旅に出て、帰ってきたときには10歳になっていたという、そんな長い旅です。ミュンヒェンからアウグスブルグ、ハイデルベルク、マンハイム、フランクフルト。このフランクフルトで14歳のゲーテに会うわけですね。モーツァルトはそれがゲーテであるとは知らないですから、天才少年、神童に出会ったゲーテが、後年その印象を語ったことでこのエピソードが、後世に伝えられることになりました。更にアーヘン、ブリュッセル、パリへ行きます。パリでは5か月滞在します。その後もパリへは行ってますから、モーツァルトはフランス語が堪能でした。それからロンドンに渡ります。これは1年3か月滞在します。ですからモーツァルト、英語も達者でした。ここでセバスチャン・バッハの一番下の息子、クリスティアン・バッハに出逢って、オペラや音楽の技術を教わります。次いでオランダに渡り、そこで腸チフスに罹りますが、回復してリヨン、スイス、ミュンヒェンなどを回りザルツブルグに帰ってくるんです。それが最初の大旅行です。

その後、13歳の時にイタリア旅行をします。イタリアは、前にも申しましたけども、音楽については圧倒的な先進地域でした。それは、ルネッサンスの絵画の完成度、先進性を思い出せば判りますけれども、そうしたルネッサンス文化の中で、今日に続く音楽文化が生まれたわけですが、モーツァルトは、イタリアではマント―ヴァとか、あちこち先進都市を回ります。クレモナは、ストラディヴァリウス、ガリネリウス、アマティなど現在ものすごい高い値段で取引されているバイオリンの製作地、ふるさとです。そのクレモナの黄金時代最後のころにモーツァルトは滞在します。イタリアの作曲家で、ハッセという人がいたんですが、その人がメタスタジオの台本による「ティ-トの慈悲」をオペラにします。それをこの地で観ています。この体験があり、晩年、35歳の時に、モーツァルト流に曲を附けボヘミヤ王の戴冠式に「ティ-トの慈悲」を上演したということがあります。イタリアでは色んな人に遭いますが、Martiniという、当時の最高の音楽理論家に対位法を教わります。また、「名カストラート」のファルネッリに出逢いまして、歌唱法について、学びます。そういうイタリア旅行をしますが、その中で、ミラノで特に厚遇されて、オペラの注文を受けます。それが、「ポントの王・ミトリダーテ」という作品でそこで初演されます。

さらにモーツァルトは、15歳の年にもイタリアミラノを再訪します。そこで、マリア・テレジアの息子のフェルディナンド大公の結婚式のために祝典用の曲を作ります。「アルパのアスカ-ニョ」という曲です。

そういうイタリア旅行を経験したうえで、16歳の年にイタリアを再々訪します。これは求職活動です。宮廷の音楽メンバーになりたい、それが目的だったのですが、注文を受けてオペラを作ったりするものの、職は得られませんでした。どうやら、マリア・テレジアが、自分の息子にこういうことを言ったようです。「無用な人間は雇わないように。乞食のように世の中を渡り歩くような人は、家臣たちにも悪い影響を与えます」と。モーツァルト、そうした事情を知りませんから、注文をくれるので、てっきり雇ってくれるものと思ってたんですが、全く当てが外れて、失意のうちにウィーンへ帰ります。

そういう旅の中で、モーツァルトはカストラートとかなり接点があったようです。カストラートですが、当時のオペラの世界では、物凄く重宝されました。それについて少し説明をします。

カストラートというのは、要するに変声期、声が変わる前の少年を去勢して声変わりしないまま成長させるんです。そういうことが、イタリアでは、16世紀あたりから流行ってきます。最盛期には男の子が年に4,000人位カストラートにされたそうです。

去勢をしても成長ホルモンは普通に出ますから、骨格、胸郭、肺活量はどんどん大きくなるんです。しかし声は少年の時のままです。ソプラノ、アルトの声域ですね。そういう人がどんどん作られます。悲惨なことに、孤児院の子達が結構多くカストラートにされたという話です。

何故そのカストラートが多く求められるようになったかというと、当時教会の中で女性が歌うことを禁止されていたんだそうです。それと劇場でも女性は歌ってはいけない――― と。歌舞伎の世界なんかと同じです。歌舞伎の女形というか、男性が女性役をするのと同じように、男性がオペラの中でソプラノを歌う―― と。それが主役なんですね。相当な報酬を得られたようです。そのカストラートとモーツァルトは交流がありました。モーツァルト自身も、早い頃のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』などは、カストラートを主役にしてオペラを作っています。大体、オペラというのは、歌手の能力に応じて曲を書くんだそうですね。このカストラートの一番最後の人は20世紀まで生きていました。モレスキー、という人。1922年に亡くなっています。ネットで調べたら、この人の歌が聴けました。もし興味があったら聴いてみてください。カストラートというのは、声は甘くて、野性的で、かつ官能的という風に言われています。体形は、どちらかというと、脂肪がついて、ちょっと小太りになるんだそうです。それが、啓蒙の時代、フランス革命以降は、人道に反する、人権侵害だという論議が起こりまして、急激に無くなってきます。

面白いことに、あのベートーヴェン、1770年の生まれです。フランス革命の前ですね。ベートーヴェンは、非常に美しいボーイソプラノだったんですけれども、周りから、カストラートになれ、ということを勧められたりもしたそうです。この時は、あの飲んだくれの父親が断固拒否したということで、ベートーヴェンはカストラートにならずに済みました。

そういうカストラート、当時のナポリの音楽院では、本当に英才教育を授けられます。スカルラッティの全盛時代ですが、呼吸法だとか、歌唱法だとかを学びます。コロラトゥーラソプラノというのがありますよね。あの魔笛の「夜の女王のアリア」、あの歌唱法は、カストラートが開発したんだそうです。更に文学も学びますし、対位法の勉強もします。あるいは、ハープシコードとか、讃美歌の作曲もする、そのようにして非常に当時としては高い地位を与えられました。

17世紀には、男性のオペラ歌手の70パーセントがカストラートだったんだそうです。そのカストラートというのは、去勢手術をするわけですが、手術方法の背景に触れてみます。ボローニャ大学は13世紀に出来ていたんですが、そこに医学部がありまして、外科医も養成していました。外科医は、当時、床屋さんを兼ねていたんだそうです。余談ですが、床屋さんの、あの赤、青と白の、くるくる廻るサインがあるでしょう。赤は動脈で、青が静脈、白は神経を表わしているとか、もともと医学と関係が深かったということのようです。そういうボローニャ大学などから床屋を兼ねた外科医が輩出されて、広く、去勢手術を担当することになります。そのように、音楽の世界には、カストラートというような、今から考えれば異様な部分がありました。それではそろそろ、妻鳥先生の歌に入りましょう!

   真鍋ひろ子   訳詞朗読

   妻鳥純子    アルト

   渡辺正子    ピアノ

      ♪ 小さなフリードリヒの誕生日 ・Des kleinen Friedrichs Geburtstag

      ♪ 夢の姿            ・Das Traumbild

      ♪ 春への憧れ         ・Sehnsucht nach der Frühlinge

      ♪ 春の初めに         ・Im Frühlingsangange

      ♪ 子供の遊び         ・Das Kinderspiel

      ♪ 夕べの想い      ・Abendempfindung an Laura


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