「この歌を拵えたのは誰?~グスタフ・マーラー」真鍋和年講義
- 妻鳥 純子
- 2018年9月19日
- 読了時間: 20分
2018年3月2日「ドイツ歌曲への誘い」「この歌を拵えたのは誰?」Vol,13 の真鍋和年氏の講義を掲載する。
「ドイツ歌曲への誘い」vol.13
世紀末ウィーンとマーラー
真鍋和年 講義
皆様、こんばんは。年度末の大変慌ただしいところをお運びいただきまして、ありがとうございます。ナヴィゲーターを務めます真鍋でございます。 今回はいよいよマーラーということになりました。ベートーヴェン、モーツァルトは、よく聴かれます。あるいは、ブラームスとかシューマンとか、ヴァーグナー辺りまでは、聴く人が大変多いと思いますが、マーラーとなるとやや馴染みがないかと心配していました。ただ、1960年、マーラー生誕100年辺りから少し聴かれるようになって、80年代辺りには、かなりレパートリーとしてオーケストラなどにも取り入られるようになったようです。そこで、今日はあまり馴染みのないそのマーラーを勉強してみたいと思います。
マーラーは、1860年に、今のチェコの西部、ボヘミア地方のユダヤ人家庭に生まれました。お父さんは独力で酒、蒸留酒の製造業を始めるなど実業家として成功したようです。マーラーは小さい時から音楽的な才能を発揮し、5歳からピアノを始めておりまして、10歳ではピアノのリサイタル、この頃には天才少年と言われたようです。15歳でウィーン音楽院に入学いたします。音楽の都の中心部ですね。ウィーンに出てきます。
その後、指揮者としてマーラーは成功いたします。37歳の若さでウィーン宮廷歌劇場の指揮者、音楽監督になります。これは大変な異例の大出世です。
マーラー、ユダヤ人の家庭に生まれて非常に苦労しますけれども、努力家であり、一所懸命勉強します。色々批判もありますけれども、ユダヤ人というハンディを背負って世渡りでも大変苦労します。20歳の時に、バート・ハルという温泉町、オーストリアの温泉町で、劇場の指揮者になります。これは、オペレッタとかコメディーの伴奏を担当したり、オーナーの子供の子守りまでやらされたという、そういうスタートです。21歳の時にライバッハ、これはスロベニアの都市で旧ユーゴスラビアの、いちばんオーストリアに隣接した地域です、そのライバッハ州立歌劇場の首席指揮者、と言っても指揮者は一人だけという、そういったところで指揮者に正式に就任して、ヴェルディの「トロヴァトーレ」とか、モーツァルトの「魔笛」を指揮します。
それから、これも今のチェコのモラヴィア、オルミュッツという所の市立劇場の指揮者になります。その後、カッセル、ドイツ中西部ヘッセン州の都市です。ここは、ヘッセン選帝侯国でもあった、かなり有力な神聖ローマ帝国の領邦国家です。そこの王立歌劇場の指揮者になります。さらには25歳の時、プラハのドイツ劇場の指揮者になります。プラハもやっぱり神聖ローマ帝国の一部ですから、ドイツ人がたくさん住居していて、ドイツ劇場があり、そこの首席指揮者として、モーツァルト、ヴァーグナー、ベートーヴェンの第九などを指揮します。それからライプツィヒの市立劇場の次席指揮者になります。首席指揮者は、有名なアルトゥール・ニキシュです。
その後、ブダペストに行きまして、ここでハンガリー語でオペラを上演するのですが、ヴァーグナーをハンガリー語でやります。ここで「ドン・ジョヴァンニ」の演奏をした時にブラームスが来てまして、激賞をします。「これは凄い!」という風にブラームスがマーラーを褒め称えます。それで31歳にしてハンブルグの市立劇場の指揮者になります。ここにいた時に、終生マーラーの友人になりますユダヤ人、ブルーノ・ヴァルターが、助手を務めていました。
このハンブルグの市立劇場、あのブラームスが指揮者になりたくてしょうがなかったのですけれども、ついに拒否されてなれなかったという劇場です。そして遂に37歳にしてウィーン宮廷劇場の指揮者になるわけですが、この歌劇場の指揮者、音楽監督になるにはオーストリア政府の閣議決定がないとなれない、という大変高い地位です。日本でも安倍総理を中心に閣議というのがありますが、そうしたところで決定されないとなれない――― という。もう一つは、王立基金運営機関(王室の基金で運営する機関)の公吏の職ですが、音楽監督がこれにあたり、カトリックでなければならない――― という規則です。ところが、マーラーはユダヤ人ですから当然ユダヤ教です。そこでこの時にカトリックに改宗をします。それが、ご都合主義だとか、出世のために信念、宗教を捨てたとか、色々批判を受けます。普通考えたら、それだけの高い地位に就けるのならば、カトリックに改宗しても許されるのではないか、と思いますけれども。
マーラーは指揮者として頂点を究めるわけですけれども、シーズン・オフ、夏がオペラのシーズン・オフですので、夏には別荘にこもりまして作曲に専念します。その成果がのちに大変評価されて、今日のマーラー・ブームに繋がった、ということです。その後、1897年に、カール・ルエーガーという強硬なユダヤ嫌いの政治家が、ウィーンの市長になる。ハプスブルグ家の皇帝もこの人の就任をなかなか認めなかったのですが、結局のところは市長になってしまいます。そのルエルガーの反ユダヤ主義の演説に若いヒトラーが大心酔する――― ということです。後にユダヤ人を500万、600万、物凄いホロコーストを命令する人が、そういう反ユダヤの風潮の中で育ってきたわけです。
そういうこともあってマーラーは逃げるようにアメリカへ渡ります。メトロポリタン歌劇場の音楽監督、指揮者に就任いたします。アメリカでは高い評価を受けますが、不運にも病を得て1911年の5月、ウィーンに辿り着きかねて敗血症で亡くなります。亡くなる時に、マーラーは「モーツァルト、モーツァルト」と2回つぶやいたんだそうです。ということは、やっぱり究極はモーツァルトだったんだという風に思います。
ところでマーラーについて、当時、オペラの大監督ではあるが、道楽に化け物のような交響曲を作曲し、止せばよいのに他人の迷惑も顧みず、それを演奏しようとしている男だ…・・という風に評されたりもしました。
あるいはマーラーが作ったシンフォニー第1番、今ではもう名曲ということで、評価が定まっていますが、当時は「伝統的な交響曲の法則に背いた一つの犯罪である」とまで新聞で書きたてられました。それに対してマーラーは「いずれ私の時が来るだろう」と言った…・・・と。これは大変有名な言葉です。そういう風にマーラーは自己の前衛性を確信していた。その時代には評価されなくても、将来必ず評価されると、そういう信念を持っていたようです。そのマーラーの曲というのは、様々な人が様々に評価しますけれども、非常にメロディが美しい、あるいは全身的な陶酔の魔力、甘美な恍惚、麻薬のような一種の中毒状態に引き込む力があるとか、そういう風に評価されました。
そのマーラーについて、これから聴いていただきたいと思います。マーラーは交響曲を9曲、第10番目の交響曲は未完です。それから交響曲ということで書いたんですけれども「大地の歌」、これは番号が付いていない、別扱いになっています。一応正式には9曲ですね。「亡き子をしのぶ歌」とか、「さすらう若人の歌」でありますとか、「子供の不思議の角笛」とか、非常に美しいリートをも書いています。シューベルトの再来だという風にも評価されたりもしました。それをお聴きになっていただきたいと思います。では妻鳥先生お願いいたします。
朗読 真鍋ひろ子
アルト 妻鳥純子
ピアノ 渡辺正子
♪ 「若き日の歌」より ♪ Aus ” Lieder und Gesänge “
・回想 ・Erinnerung
・ハンスとグレーテ ・Hans und Grete
♪ 「さすらう若人の歌」より ♪ Aus ”Lieder eines fahrenden Gesellen ”
・僕の大切な人が結婚式をするとき ・Wenn mein Schatz Hochzeit macht
♪「子供の不思議の角笛」より ♪ Aus ” Des Knaben Wunderhorn“
・この世の生活 ・Das irdische Leben
・魚に説教するパドヴァの ・Des Anthonius
聖アントニウス von Paduva Fischpredigt
・美しいトランペットの鳴り渡るところ ・Wo die schönen Trompeten blasen
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マーラー、いかがでしたか……
今まで勉強してきた古典派、ロマン派の音楽とはニュアンスが違ってきていますよね。
もう20世紀にかかってきていますよね。ワーグナーの後、マーラー、あるいはリヒャルト・シュトラウスが出てきます。マーラーは、あのシェーンベルク、音楽を革命的に変えてしまった人、12音技法を創始した人、そのシェーンベルクをものすごく可愛がるんです。その時代、全くシェーンベルクは理解されなかったのだけれども、マーラーは、たった一人でユダヤ人である後進のシェーンベルクを擁護します。音楽会の会場で、その音楽を批判した客と喧嘩をするくらい庇います。
そこで、今日の曲目ですが、一番最初に歌った「若き日の歌」、これは最初からピアノ伴奏の曲です。「さすらう若人の歌」、それから「子供の不思議の角笛」はオーケストラ伴奏でよく演奏されてまして、今日みたいにピアノでやることもありますが、ピアノ伴奏の場合でも、多分オーケストラの効果をマーラーは出そうとしてますから、ピアノでやると相当難しいんだろうと思うんです。渡辺先生、相当ご苦労されたんじゃないでしょうか。
……・・・本当なんです。(妻鳥。……・会場から大きな拍手)
マーラーとブルックナーの話題ですが、ブルックナーはウィーン大学の先生で、マーラーはブルックナーに教わったりもしますし、ブルックナーの交響曲をピアノ用に編曲する仕事をマーラーは仰せつかったりもします。
マーラーのオーケストラ曲も殆どすべて、ツェムリンスキーとか色んな人が、ピアノ曲に置き換えるんです。私が勉強したところでは、当時オーケストラ曲を作って出版しても、誰もそれを楽しむことはできない―――― 、演奏会に行かないと。それでピアノにすれば当時、かなりピアノを弾ける人はいますから。それを楽しむことができたんです。つまりこれが再生装置が無い時代のやり方だったようです。ピアノの普及は、この時代かなり進んできていました。弾ける人もたくさんいましたから、ピアノ伴奏用をつくるという。しかしもともとオーケストラの効果を狙っているものをピアノにするから、ちょっと難しい。―――そういうようなことがあったようです。
そのマーラーの、身体的な特徴ですが、身長163cm。当時のドイツの人達の中では背が低い。うっかりとか、ぼんやりしてることが多かったと言われています。感情の起伏が激しく、痛々しいほど落ち込むことがあったようです。一方では、完全主義、理想主義、芸術至上主義、…・・・。
さっき妻鳥先生が演奏している時、客席を暗くしましたけども、演奏が始まると客席を暗くする、というのはウィーン国立劇場でマーラーが始めたんだそうです。その頃は社交場だったから、明るくして、ワイワイ、ガヤガヤ動いたりもしていたようです。マーラーは、音楽を鑑賞するのに、それではいかん…・・ということで、客席を暗くした。それと、遅れてきたら会場に入れるな…・・、というのは、マーラーがやりだしたんだそうです。曲が一段落ついたときに入れるように。それまでは演奏中でも、遅れてきた人の足許を照らして導いたりしたようですね。そんなことを、今の、そういうルール、マナーを作った最初の人です。やっぱりマーラーは、芸術ということを、物凄く厳密に考えていたのだと思います。
話は変わりますが、マーラーは41歳になって19歳年下のアルマ・シンドラーという、当時ウィーンの有名な風景画家の娘と結婚するんですね。そのアルマ・マーラーというのは才色兼備の女性で、ウィーン一の美人だ―――とも言われたような人なんです。ウィキペディアで調べてみたら、「ミューズにして、ファム・ファタル」(ファムファタル【(フランス)femme fatale】とは《運命の女性の意》男性の運命を変える女性。男性を破滅させる女性。カルメンやマノン=レスコーなど。)要するに、男の運命を狂わせる女―――― という、そんな表現ですね。知り合った当時、マーラーは輝けるウィーン国立歌劇場の音楽監督、指揮者ですからね。アルマも、「いろいろあるけど、ま、いいか」と思ったらしいんです。しかし、この美貌なんで、色んな男性が言い寄ってくるわけです。ずっと若いころ、ツェムリンスキーという、マーラーとも親しい音楽家に弟子入りをして、ピアノとか作曲とか習ってましたから、アルマ自身、作曲もします。それから彼女のお父さんが画家でしたから、周辺に画家が沢山いました。グスタフ・クリムトが「アルマ、好き、好き」で、付きまとうといったこともあったようです。
しかし、結局アルマはマーラーと結婚します。1901年に結婚しまして、10年くらいたった頃ですけども、アルマが体調を壊してトーベルバートという所へ静養に行くんですね。その静養先で若き建築家グロピウスと出会いまして、グロピウスがアルマに夢中になってしまいます。アルマもそういうグロピウスの一途さに応える…・・・というようなことになってしまいます。そのグロピウス、第一次世界大戦後のドイツでバウハウスという芸術運動がありましたが、その中心人物です。バウハウス、というのは今の美術工芸大学で、そこには建築科もあるんですけれども、そういう学校を創設します。このグロピウス、今日ではモダニズム建築の巨匠です。ル・コルビュジエなどと並んで、4人の巨匠の一人だと言われてます。そのグロピウスが、もうアルマに夢中になる―――― 。その揚句、グロピウスは、アルマに出すはずの恋文を、何故か……わざとらしいんですけれども、「グスタフ・マーラー様へ」と宛名を書いて出したのだそうです。そこには「貴女なしでは生きられない」「もし少しでもその気があるのなら、全てを捨てて自分のもとへ来てほしい」と書かれていました。
マーラーもこの年50歳位になっていまして、もう亡くなる少し前なんです。これを読んでかなり落ち込んでしまいまして、交流のあった、ジークムント・フロイト、夢判断、精神分析のフロイトを訪ねて診断を受けたりするんですね。そういう人間関係の中でマーラーは亡くなります。
その後、アルマは、画家のオスカー・ココシュカという、あのクリムトに近い画家ですが、そのココシュカとも深い仲になります。ココシュカの代表作に「風の花嫁」という絵がありますが、これはアルマと自分をモデルにしたかなりスキャンダラスな絵です。アルマがこの時32歳、ココシュカ25歳、ということですが、アルマはココシュカと交際しながら、グロピウスと正式に結婚をします。結婚はするんですけども、1929年、これはもうマーラーが亡くなってからのことですけども、グロピウスとの結婚は破綻をしまして、今度は詩人・作家である11歳年下のフランツ・ヴェルフェルと再再婚をします。それで子供が生まれるんだけれども、お父さんは誰か、よくわからない――― というようなことになってしまいます。そんな風にアルマ・マーラーというのは、大変恋多き女性で、そのアルマにマーラーは引きずり回されてしまいます。
そうした事情が、マーラーの音楽に現れているのか、いないのか、私にはわかりませんけれども…・・そういうマーラーです。
二人にとって平和な時代もありまして、そうした時期マーラーの生活は規則正しく行われていました。作曲小屋に籠る時は、きっちり6時に起きて別荘を出て,50m程高い裏山にある作曲小屋に入るんです。助手がそこへ朝食を持って来ます。コーヒーとパンとバナナと日替わりジャムです。ミルクはアルコールランプで温めます。昼になりますと、別荘へ帰ってきて着替えをして湖で泳いだり、庭を散歩したり。昼食には必ずスープと火の通った何かが必要と。マーラーはヴァーグナーに心酔していましたから菜食主義を実践して、あまり肉を食べなかった時代があるようです。そして、動物好きで、散歩するときには子猫を2匹ポケットに入れて散歩した―――― ということが書かれています。五線紙も必ず持参していました。着想が湧いたときのために。
夜になると、読書とお喋りをする――― 。その作曲小屋には、ピアノが1台ある。ゲーテとカントの全集が何故かある。楽譜はバッハの楽譜のみ置いていたんだそうです。
別荘に帰りますと、ショウペンハウエルとかドストエフスキーとか、ドン・キホーテなどを読んでいたようです。科学については、ニュートンの著作があったとか――――というようなことです。
そんな環境の中でマーラーは作曲に励みますが、非常に几帳面な規則正しい生活をこの時期にはしていた、ということでございます。
―――――――――――――― 休憩 ―――――――――――――
「ドイツ歌曲への誘い」vol.13 世紀末ウィーンとマーラー 後半
真鍋和年 講義
そろそろ後半のお喋りを始めたいと思います。召し上がりながらお聞きください。
今日はテーマが「世紀末ウィーン」となっていますが、マーラーは「世紀末ウィーンで育ったといいますか、芸術的な成長を遂げました。世紀末ウィーン、あのハプスブルグ帝国、神聖ローマ帝国の皇帝は、ハプスブルグ家から13世紀以来、700年にわたり出ています。その神聖ローマ帝国が、19世紀の初頭1806年のこと、ナポレオンの圧力で解体されまして、皇帝が退位をして、元のオーストリア単一帝国になるわけです。オーストリア帝国は、多民族支配してますから、チェコだとかハンガリー、ユーゴだとか、ポーランドも一部あります、あるいはドイツ人もいるし、帝国の運営、統治に苦労をします。そのハプスブルグ帝国が落日を迎える、第1次大戦で敗北をして、皇帝がスイスに亡命して消滅。地上から消滅する、その直前の情況です。しかし700年の都というのは文化に限らず蓄積が凄い。日本で言ったら、京都に全国から良いものが集まって、そこで熟成する、「雅(みやび)」という文化ができる―――― 。それが地方に波及したものは「まねび」です。――――「だんじり」も京都祇園祭の「まねび」になるでしょうか。
そういうことでヨーロッパではやっぱり、ハプスブルグのウィーンとブルボンのパリ、が中心地です。そこに世紀末の爛熟と退廃、あるいは崩壊と解体といったキーワードで語られる状況があり、一方で新しい時代、モダンの出発点でもあるという非常に複雑な様相を呈しておりました。
で、これも安直なウィキペディアで「世紀末」検索してみましたら、上手なまとめをしてましたんで、ちょっと紹介します。「19世紀末、史上稀にみる爛熟を示したオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーン及びそこで展開された文化事象の総称。特にユダヤ人の人々の活躍が目覚ましい。広義には20世紀世界に大きな影響を与えた政治的経済的諸事象や学芸における諸潮流を含んでいる」ということです。オーストリア・ハンガリー帝国というのは、1866年に普墺戦争、プロイセンとオーストリアが戦争をして、新興のプロイセンにオーストリアは大敗を喫してしまい帝国の維持ができなくなったとき、ハンガリーの民族主義を懐柔しながらハンガリーと組んで二重帝国を形成、辛うじて帝国の統一を保ったという、非常に弱体した国家だったんですね。
そこでの文化ということです。ユダヤ人が、大いに活躍する。これは1860年にオーストリア帝国では「寛容令」により、ユダヤ人の居住とか職業とか婚姻の自由が広汎に認められることになります。そこで、周辺地域から優秀なユダヤ人達が沢山ウィーンに入ってきます。その人達が素晴らしい文化を創造したわけです。例えば、フーゴ―・ヴォルフ、この人はマーラーとはウィーン音楽院の同級生で、スロヴェニアからやって来たユダヤ人です。シェーンベルク、この人もユダヤ人です。そういった音楽家がいます。
それから演劇では、ホフマンスタールという人がいます。あの「薔薇の騎士」とか、「エレクトラ」の脚本を書いた。これは妻鳥先生、小澤征爾さんの指揮で―――― (あぁ、良く覚えていらっしゃいますね。)――― 小澤征爾さんと組んで「エレクトラ」の舞台を経験しました。―――― (ちょっとだけですから。)――――彼もユダヤ人です。シュニッツラーという、映画にもなりましたが「輪舞」という小説を書いた人もユダヤ人。あるいはシュテファン・ツヴァイク、この人もユダヤ人です。カフカこの人も、チェコのボヘミアの生まれのユダヤ人。あるいはムジールとか「夢遊の人々」を書いたヘルマン・ブロッホそういった人達。それから心理学でいえば、マーラーとも交流があったフロイトがユダヤ人ですね。そういった人達が活躍をいたします。
そのユダヤ人というのは、歴史的にたいへんな差別に耐えてきました。ナチス時代のホロコーストと言われる大変な迫害を、あるいは「ポグロム」という迫害行為が、ロシアなでも横行しますが、ユダヤ人というのは、歴史的に「ゲットー」と呼ばれて限定された地域に住まわされて、時に地区民全員が皆殺しにされる、というようなことがありました。
画家のシャガールも、ロシアに生まれたユダヤ人なのですが、迫害を受けパリに逃げます。
その迫害の様子ですけれども、大虐殺となると、想像力が及ばないので身近な事例を紹介してみます。これは、フロイトのお父さんが、息子に語った言葉です。こういったことを伝えたそうです。――――「若いころ、パリっとした服を着て、おろしたての毛皮の帽子を被って村の通りを歩いていた。そこでキリスト教徒とすれ違った時、そいつがわしを突き飛ばして、わしの帽子をぬかるみの中に投げ込んだんだ。そしてそいつはこう怒鳴った。» お前、ユダヤ人だろう。歩道を歩くな!« そんな時お前ならどうするかねぇ。わしは、歩道から降りて帽子を拾ったよ」―――― そういうことをフロイトのお父さんがフロイトに伝えたんですね。そんな風な迫害を受けます。
マーラー自身もギムナジウム(中等学校)では、靴を隠されたり、服を破られたり、酷いいじめに遭います。そういった中で育ちました。
しかし、ユダヤ人というのは非常に優秀な民族でしてね、世界史的にも画期的な業績、研究成果を残す人がたくさんいます。本当に世界がひっくり返る、あるいは学問上の常識がひっくり返るような成果ですね。例えば、アインシュタインなんかがそうですね。相対性理論なんて言う、とんでもない理論をユダヤ人が構築する。あるいはフロイトにしてもそうですけれども、夢の判断をするとか、精神分析とか、科学的に人間の精神にメスを入れるなんて言うことは、フロイトが史上初めてやったことです。
シェーンベルクにしても従来の音楽理論をガラっと変えるような、12音技法、調性も無くなってしまう。更にカフカです。従来は、小説といっても情景だったり、抒情だったり具体的、具象の世界を描きましたが、カフカは皆さん「変身」なんかを読まれたと思いますけれども、とんでもない革命的な小説を書いてしまうんですね。あるいは、エスペラント語という人工言語を提唱したザメンホフ、この人もユダヤ人です。勿論、社会変革を志したカール・マルクスもユダヤ人ですね。それとか、私はあまり勉強してないんですけれども、この時代にウィーンで活躍したヴィトゲンシュタイン、分析哲学です。今、重要な哲学の潮流になっているようです。あるいは「ダダイズム宣言」のトリスタン・ツァラ、これもユダヤ人です。あるいは、ベルグソンとかフッサールとかショウペンハウエルといった哲学者。革命家では、レーニンとかトロツキーとか、ローザ・ルクセンブルク、とかみんなユダヤ人なんですよね。
それから文学の世界でも、ハイネでありますとかプルーストなんかもユダヤ人ですね。あるいは、アーサー・ミラーとかサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」Catcher in the Rye のサリンジャー。あるいはひところ読まれたノーマン・メイラー、そういった人達もユダヤ人です。
それからフランスのアンドロ・シトローエン。車のシトローエンです。その人もユダヤ人だそうです。特にアメリカではユダヤ人の活躍が目立ちます。世界で1,300万人のユダヤ人がいると言われてますが、今、イスラエルに移住する人が多いんで、ここに600万人いて、アメリカを超しました。それまでは、アメリカに500万人いて圧倒的なユダヤ大国です。
アメリカではユダヤ人の支持がないと政治的にも成功しないというので、トランプ大統領の周辺にも相当ユダヤ人がいますよね。
エルサレムにアメリカ大使館を置こう、移転しようとしていますが、これもアメリカのユダヤ人の力があるようです。トランプさんの最初の奥さんはチェコ系のユダヤ人だし、3番目の奥さんもユダヤ人らしい、ご本人がどうかということは、よくわかりません。ただ、アメリカの大統領がユダヤ社会に一番近くなった、というのが今のようですね。
ゴアさんが大統領選挙に立候補した時、副大統領候補にユダヤ人を指名していたんだけれども、当選しませんでした。
そういうユダヤ人として、マーラーは生まれ育ち、その差別ですとか、迫害をバネにして、偉大な大作曲家、大指揮者になった―――― とそういう話です。
朗読 真鍋ひろ子
アルト 妻鳥純子
ピアノ 渡辺正子
♪「リュッケルトの詩による5つの歌」より ♪ Aus ”Rückert Lieder
・美しさゆえに愛するのなら ・Liebst du um Schönheit
・私の歌を覗き見しないでください ・Blickst du mir nicht in die Lieder
・私はやさしい香りを嗅ぐ ・Ich atmet einen linden Duft
・私は世間に対しては失われたに等しい ・Ich bin der Welt abhanden gekommen
・真夜中に ・Um Mitternacht
♫ ・この歌を拵えたのは誰? ♫ ・Wer hat dies Liedlein erdacht?
♫ アンコール ♫ Zugabe
・早春賦
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マーラー、いかがでしたでしょうか。これを機会に少しマーラーの交響曲、作曲をお聴きになってみてください。今日はご紹介できませんでしたけれども、例えば交響曲の8番、「千人の交響曲」というのがありますが、実際に千人が舞台に上がります。ミュンヘンの初演の時は1030人。楽器担当が171人、独唱が8人、合唱が850人。で、1030人、一度試しにお聴きになってみてください。
それで次回ですが、今回13回ということで一応これで第1期の音楽サロンを終了いたしますけれども、また9月頃再開したいと思います。どういうふうな形になるか決まっておりませんが、また皆さんと一緒に勉強したいと思いますので、是非よろしくお願いいたします。半年以上先のことなので、まだ会場予約ができないのですが、決まりましたら、ご案内を差し上げます。
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