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妻鳥純子

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「最後のシューベルトとハイネ」

  • 妻鳥 純子
  • 2018年12月18日
  • 読了時間: 19分

2018年9月28日(金)の「ドイツ歌曲への誘い」の時に行った、真鍋和年氏の

「最後のシューベルトとハイネ」の講義全文です。

           180928   「ドイツ歌曲への誘い」Vol.14

         最後のシューベルトとハイネ 真鍋和年 講義

 皆さん、今晩は。定刻が参りましたので、第14回の「妻鳥純子音楽サロン」を始めたいと思います。今日は大変お忙しい中をお運びいただきまして、ありがとうございます。

ナヴィゲーターを務めます真鍋和年です。よろしくお願いいたします。(拍手)

今まで、13回、実はここの文化会館の主催ということで、お世話になってきたのですが、今回から自立をしまして、私共のサロンの実行委員会が主催をいたします。妻鳥先生、まだまだお元気で声も出ますので、しばらく私どもにお付合を願い、勉強させていただこうという風に思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

今日は、シューベルトがテーマです。シューベルトは今まで何度も取り上げてまいりました。が、今回はシューベルトの最後の歌曲集「白鳥の歌」です。

「白鳥の歌」は3人の詩人の詩に付けた曲が含まれています。レルシュタープ、ハイネ、ザイドルです。「白鳥の歌」というのは白鳥が今際の際に美しい声で鳴く、というヨーロッパの、ギリシャ・ローマ時代からの伝説がありまして、シューベルトがこの曲を作って、本当に間もなく亡くなってしまいましたので、「白鳥の歌」と出版社が名づけました。この時はじめてシューベルトはハイネという素晴らしい詩人に出会い、名曲が生まれることになります。そこで、これまでのシューベルトとは異なった新しい展開を見せ始めますが、これは記念碑的な最後の作品です。そういうことで、勉強してみましょう。

今日のプログラムを見ていただいたらわかるのですけれども、前半は、「白鳥の歌」最後のシューベルトに到るまでの名曲の数々を取り上げています。最初「羊飼いの嘆きの歌」D121 と書いていますけれども、D というのはドイチュというオーストリア、ユダヤ系の音楽学者の頭文字です。オットー・エーリヒ・ドイチュという人がシューベルトの作品の成立年代を研究し、通し番号をつけたんですね。

作品番号で言いますと、1番というのは、あの名曲の「魔王」なんですが、魔王に到るまでに既にたくさんの作品を作っている。従って、作品番号は作曲の順番に並べられたものではなかったので、このドイチュという人が曲の成立順序により整理をしたものです。ドイチュはユダヤ系ですから、ナチスの時代にはイギリスへの亡命を余儀なくされ、ケンブリッジ大学で研究を進めて、1951年ですか、通し番号を完成させました。そのD (ドイチュ)です。

 今日はD121から始まりますけれども、100番台はシューベルト18歳の頃、10代の作品です。500番台になりますと20歳。それから700番台位になりますと24歳から26歳ということになります。で、800番くらいですと27歳以後です。

 その後、休憩をはさんで「白鳥の歌」の中のハイネの部分を取り上げますが、ドイチュ900番台ですね。これはもうシューベルトが31歳。31歳と10ヵ月くらいで亡くなりますので、亡くなる間際の作品が大体900番台です。そのあたりのものは多くは遺作という風にされております。

 シューベルトは「歌曲の王」と言われておりまして、生涯に600曲余りの歌曲を作りましたが、いろんな詩人に割と簡単に曲をつけまして、その数88人にのぼります。その中でもゲーテが圧倒的に多いんです。ゲーテが88曲ですね。

そして、最後の最後、ハイネに出会うことになります。シューベルトがかつてこういうことを言った、という風な証言がございます。

……「詩が良いとすぐにうまい考えが浮かんでメロディーが流れ出てきて、本当の喜びが感じられる。悪い詩だとちっとも捗らなくて、身を苦しめても出てくるのは干からびたものだけだ」……と。シューベルトは自分が良い詩だと思ったらメロディーが湧き出てくる、というのです。

 シューベルトがハイネに出会うのは、亡くなる年、1828年ですが、1月12日という記録があります。シューベルトを囲む人たちの集まり「シューベルティアーデ」という集まりがありましたが、そこのメンバー達との読書会の中で、後にハイネの「歌の本」に収録される詩の朗読を聴き、それに触発されて、この「白鳥の歌」に収録される曲を一気呵成に書いてしまったということです。

 シューベルトは前にも言いましたけれども若い時から、どうも梅毒に侵されていたようで、定期的に調子が悪くなるんですね。その当時、梅毒は、ペニシリンがない時代で、「水銀療法」が一番良いとされていて、結局、水銀中毒になってしまう、ということで、シューベルト、どんどん悪くなっていった。これ、間歇的に3週間とか、3か月、3年とか、そういう悪化するサイクルがあるようですけれども、悪くなってしまいます。それで、いつも死の予感を持っていました。これも前に紹介しましたけれども、こういうことを言っています。

……「僕は自分が世界中で最も不幸でみじめな人間だと感じている。健康が二度と回復しない人間のことを考えてみてほしい。」……と。こういったことを言ってまして、シューベルトの友達にシュヴィントという人がいたんですが、その人が書いた手紙には、「シューベルトが快方に向かっている、それ程遠くない時期に自分の髪で出歩くようになるだろう――― いま彼はなかなか快適な鬘(かつら)をつけているよ」……ということで、梅毒か水銀中毒か知りませんけれども、髪が抜けていまして、鬘を使っていた、ということであります。そういうシューベルトの初期から中期あるいは円熟期の歌曲について、妻鳥先生、ピアノの渡辺先生に演奏していただきます。よろしくお願いいたします。

        アルト 妻鳥純子  ピアノ 渡辺正子

♪ ・羊飼いの嘆きの歌           ♪ ・Schäfers Klagelied

 ・愛はいたるところに           ・Liebe schwärmt auf allen Wegen   

・鱒                   ・Die Forelle

 ・秘密                  ・Geheimes

・水面に歌う               ・Auf dem Wasser zu singen

♪ ・君はやすらい             ♪ ・Du bist die Ruh

・笑いと涙                ・Lachen und Weinen

・若い尼僧                ・Die junge Nonne

・ミニヨンの歌              ・Lied der Mignon

・楽に寄す                ・An die Musik

いかがでしたでしょうか。ドイツリート。やはり詩の意味内容、それに歌があり、素晴らしい伴奏が付いている、その一体となった芸術、音楽芸術、そういうものなんですね。妻鳥先生の芸大時代のお友達で、Wien ウィーンにいらっしゃる市野和子さんのお話では、ウィーンでもこういうコンサートがあるんだそうです。プロの俳優とかの朗読を聴き、そして歌がある。そういう形式の演奏会です。それに倣ってやっているわけです。

さて、シューベルトの美しい曲をいくつか取り上げて演奏していただきましたが、皆さんがご存知の曲もあったのではないか、と思います。3曲目に歌っていただいた Die Forelle (鱒)、これはピアノ五重奏曲にも使われて、よく演奏されるんですけれども、シューベルトが、リートを器楽曲に使っているのは、多分、相当自信のある曲なんだろうと思います。このピアノ五重奏曲「鱒」は名曲です。もし機会があったら、是非聴いていただきたいと思います。

後半には「白鳥の歌」の中のハイネの詩による歌曲を演奏していただきます。「白鳥の歌」は皆様もご存じのとおり、巷間、シューベルトの三大歌曲集のひとつとされています、「美しき水車小屋の娘」Die schöne Müllerin 「冬の旅」Winterreise とともに。「冬の旅」は以前に2回に分けて、このサロンで取り上げたことがございます。で、三大歌曲集のうちの最後の「白鳥の歌」に今回ようやくたどり着いた、ということでございます。

その「白鳥の歌」の中のハイネの詩による6曲のリートを演奏していただくということです。「白鳥の歌」は、前半がレルシュタープという詩人の詩に曲をつけたものです。その後にハイネ。レルシュタープが7曲あります。ハイネが6曲で、シューベルトの友人のザイドルが最後に1曲、これら14曲をまとめて「白鳥の歌」という名称で出版されています。

レルシュタープという人は、音楽評論家であったり、詩人であったり、音楽雑誌の発行人だったりするんですが、当時のウィーンでは非常に有力な人でした。お父さんも音楽出版業を起こし、そして作曲家でもありました。

このレルシュタープ 、ウィーンの名士会のメンバーで、そこでベートーヴェンとも接点があったと言われています。ベートーヴェンの有名なピアノソナタ14番「月光の曲」、愛称「月光」というのは、このレルシュタープが名付けたものです

そのレルシュタープが7編の詩をベートーヴェンに作曲してもらおうとしたのですが、ベートーヴェンは亡くなります。1827年のことです。それで果たせなくなったので、巷間伝えられているところによると、ベートーヴェンの最後の秘書をしていたアントン・シントラーという人がシューベルトのところに回してきた、と。で、シューベルトが作曲をするということになる訳です。この時期は、シューマンが感慨を込めて書いてましたが、1826年にカール・マリア・フォン・ウェーバーが亡くなり、翌1827年、ベートーヴェンが亡くなり、ベートーヴェンの葬儀に参加したシューベルトが、その翌年1828年に亡くなる―――  と。そういうような時期でした。音楽の世界でも、世代交代が急激に進んでしまうという、そういう時代でした。

シューベルト、いろんな詩人に曲をつけます。88人と先ほど申しましたけれども、そのうちで、文学者として、世界レベルで有名であったり、評価されている人というのは、ゲーテとシラーと、そしてこれから取り上げますハイネ、3人だけのようです。

ハイネというのは世界的に評価されている素晴らしい詩人です。このハイネについて、ニーチェが言っています。「この人を見よ」という本ですが、「抒情詩人というものの最高の概念を私に与えてくれたのが、ハインリヒ・ハイネである」と。「幾千年にも及ぶあらゆる国々を捜してみても、彼に匹敵するほどの甘美で、そして情熱的な音楽を見つけ出すことには成功すまい」と言っています。それに付け加えて、「ハイネはなんと見事なドイツ語を操ることだろう。後世の人はこうも言うと思う。ハイネと私(ニーチェ)はドイツ語にかけてのずば抜けた第一級の芸術家であった」と。ハイネと自分はずば抜けていると臆面もなく言っています。

そのハイネを後半に演奏していただく――――  ということになります。

           ――――――――  休憩   ――――――――   

そろそろ後半を始めたいと思います。後半の「白鳥の歌」のハイネの詩による部分です。お手元に資料がいっていますが、3曲ずつ詩を朗読して演奏するようにいたします。ですから、詩の鑑賞も事前にしていただけるということになるかと思いますが、ちょっとだけ解説。詩の朗読を聴いただけでは、あまり分からないと思いますので。

 これは、ハイネの「歌の本」Buch der Lieder という詩集に収められていますが、シューベルトはストーリーを意識して選択的に6篇を採っているようです。

 一番最初の曲が Das Fischermädchen という、「漁師の娘」というタイトルなんです。これは、あの森鴎外が明治年間に「於母影(おもかげ)」という訳詩集をだしましたが、その中で「あまおとめ」と翻訳しております。

その「於母影」は、ゲーテとかハイネとかシェークスピアとか、ヨーロッパのその当時有名な詩人たちの詩を日本に紹介したものです。「あまおとめ」の内容は恋人との楽しい語らいです。

 その次に Am Meer (海辺にて)は恋の思い出と失恋の暗示になっています。

 3番目のDie Stadt (街)は恋を失った街に再び帰って来る、そういうテーマです。

 第4曲目の Der Doppelgänger (影法師)は、街に戻り、恋人が住んでいた家の前に立つ、というテーマになっています。

 第5番目の Ihr Bildは失恋の実感を歌います。

 6番目の Der Atlas これは失恋の痛手を担う決意を内容としている―――― ということです。

 そのハインリヒ・ハイネ、私も大変興味のある詩人です。1797年に生まれてますね。フランス革命の発端から8年後です。奇しくもシューベルトも1797年生まれですから、ハイネとシューベルトは同い年です。そして、ハイネは1856年にパリで亡くなります。パリは実質的に亡命先でした。ハイネはデュッセルドルフという町に生まれます。ライン川のほとりです。フランスとドイツの国境に近いところ、ルール工業地帯の南西にあります。そのデュッセルドルフについて、ハイネは強い思いを持っていました。

フランス革命が起こって、やがてナポレオンの軍隊がドイツに入ってきます。それで、この地域はナポレオンの支配下に置かれます。その時代、ナポレオン軍の兵士をハイネの家にも泊めることになります。何年も。ルグランという、太鼓をたたく鼓手がハイネの家に居住して、ハイネにナポレオンの素晴らしさを吹き込むんです。ハイネは後年「私の少年時代にフランス人が支配していた町であったばかりでなく、フランスの精神が支配した町でありました。」と回顧します。デュッセルドルフはフランス人が支配しただけでなく、フランスの精神が支配したんだと。これが重要なところで、ハイネは、自由なラインのさらに自由な子である、と自負します。自由主義の精神、あるいはプロイセン流の封建的な絶対主義に断固反対するという気風を養います。

また、ハイネは生来文学的な感受性と鋭い知性を持っていましたし、実はユダヤ人でもありました。ユダヤの家に生まれました。そういう境遇が、日本ではあまり知られていない、理解されていないんですが、実は政治的急進主義詩人であった、ということの背景です。あるいは文学者の政治参加、そういったことを体現した人です。ハイネは詩だけではなく、作家としても評論家としてもエッセイストとしても、あるいはジャーナリストとしても活躍します。

 日本でも非常にハイネ、人気があります。ロシアとか日本では大変人気が高いんです。

日本では先程言いましたとおり、森鴎外が早くに紹介しましたが、抒情詩人として広く知られております。ハイネの詩にジルヒャーという人が曲を附けた「ローレライ」というのがありますよね。あれは日本人には、教科書にも出てきましたし、よく知られています。それとか、メンデルスゾーンが作曲した「歌の翼に」これもハイネですね。

 来年7月に、妻鳥先生がハイネの詩にシューマンが曲をつけた大傑作「詩人の恋」Dichterliebe、これを演奏しようという計画がございます。

そのハイネは、また、日本ではしばしば歌謡の中でとりあげられています。「日本の歌百選」というのがどうもあるらしいんですが、文化庁と日本PTA全国協議会が選定してた歌の中に、「四季の歌」、荒木とよひささんという人の作詞作曲で、芹洋子さんが歌い結構ヒットした曲が入っています。「秋を愛する人は心深き人、愛を語るハイネのような僕の恋人」……という風な詩になってまして、ハイネは愛の詩人、恋愛詩人である、と受け止められています。

 これは古い話ですけれども、与謝野鉄幹、与謝野晶子のご主人です。この人が明治年間に、「人を恋ふる歌」というのを作りますね。その中に「ああ、我ダンテの鬼才なく、バイロン、ハイネの熱なきも」と歌われています。奥好義という人が曲をつけて広く歌われてます。バイロンはハイネよりも少し年長のイギリスの男爵です。ギリシャのオスマントルコからの独立戦争に従軍して、熱病で亡くなるんです。ハイネは、バイロンに憧れを持っていたようで、似たような情熱家でした。

 ハイネの生い立ちですが、お父さんはユダヤ人の布地商です。ビロードとかコール天を商う人でした。支配人にイギリス人を雇用していて、その名がハリーです。ハイネは最初ハリー・ハイネという名前だったんですね。それがキリスト教に改宗、ユダヤ教から改宗したときに、クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ、そういう名前になります。これは妻鳥先生の解説にもありますが、ヨーロッパ社会に入る為の通行証みたいなもので、ユダヤ教ではなかなか相手にされない。この時期のハイネは、デュッセルドルフ大学でしたか、ドクター審査に通りまして、ミュンヒェン大学に職を求めていた、それでキリスト教に改宗しました。前回取り上げましたマーラーは、ウィーン王室歌劇場の指揮者になるために、やはりユダヤ教を捨ててカトリックに改宗しましたが、ハイネも改宗をします。

 お母さんはもともと知識階級に属する人で、ルソーに心酔して「エミール」なども読んでいました。そのお母さんが、あれやこれやハイネの教育について心配をするんですね。ハイネはギムナジウムを出て商業高校に入ったりしますが、中退してフランクフルトのつてを頼って、銀行家のところで2ヵ月位見習いをします。

フランクフルトというのは、金融の中心地です。金融はユダヤ人が担うんですが、この都市では伝統的にゲットーというユダヤ人居住区がありました。その現実を見てハイネは衝撃を受けます。その後、ハンブルグにいる叔父さんのザルモン・ハイネを頼ります。銀行経営をしているこの人は大金持ちです。後々、大学へ行ったり、生活できない時も、このザルモン・ハイネに資金援助をずっと仰ぎます。

 また後で触れますけれども、ハイネはこのザロモン・ハイネのお嬢さんに深刻な恋をしまして、失恋をして、ここに後年恋愛詩人といわれる根拠があるのですが、しかし22歳でボン大学法学部に入学します。ボン大学はベートーヴェンも聴講に通った進歩的な大学なんですね。この学校に、ヴィルヘルム・シュレーゲルというロマン主義の文学者がいました。そのシュレーゲルに文学上の深い影響を受ける、そういうことになります。

 その後、ゲッティンゲン大学に転じますが、これも法学部です。弁護士になるというのがお母さんの希望でした。それで法学部に入ったんですが、古代ドイツ研究に没頭します。そこで、これも後で少し触れますけれども、決闘沙汰を起こして停学処分を受けます。25歳になってベルリン大学、これは当時は新興の大学ですが、プロイセンの首都ですから、有力な教授陣を揃えていました。そこへ入学します。そこで生涯の師であるヘーゲルに出会います。ヘーゲルから論理学であるとか美学、あるいは宗教哲学を学ぶんですね。

その後ハイネは詩人として世に出ます。新聞の寄稿、評論をしたり、ジャーナリストとしても活動するようになりますが、ハイネは、先程も言いました自由主義者ですから、プロイセンも、オーストリアのメッテルニヒの指導する反動的な監視、検閲体制下ですから、ドイツに居られなくてフランスに逃れます。これは、1830年のフランス7月革命に触発されての行動です。ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」という有名な絵がありますが、あれが7月革命の絵なんですが、ここで7月王政、立憲君主制が成立します。

ルイ・フィリップが「フランスの国王ではなくて、フランス国民の王」と宣言して立憲君主制国家になります。実質は有力なブルジョアジー、銀行家が支配する国家だと言われてますが、ブルジョア文化華やかな上流サロンにハイネも出入りをいたします。ベルリオーズでありますとか、ショパン、リスト、ロッシーニ、メンデルスゾーン、ヴァーグナー、バルザック、ヴィクトル・ユゴー、ジョルジュ・サンドとか、アレクサンドル・デュマ、こういう人達と親しく交流をします。

それから暫く後ですけれども、1843年の秋から1845年1月までパリに滞在したカール・マルクスと大変親しい交際をすることになります。詩の朗読をして批評をしてもらったり、あるいは自分の詩論をマルクスが関わる雑誌に掲載依頼をするとか、そういう交流があります。その影響があったのか、この時期から、日本で言えばプロレタリア詩といった詩も書きます。ただそういったものはあまり歌にはなっていないようですね。

そういうフランスに実質的に亡命したのが33歳の時です。それから58歳で亡くなるまでずっとフランスで暮らしました。フランスで結婚もします。

 ハイネは恋愛詩人なんですけれども、ゲーテみたいな華々しい女性遍歴というのはなくて、私が調べた限りでは、若い頃10代、17歳位ですかね、最初の恋というのは。死刑執行人の娘ヨゼファーという女性です。それから叔父さんの、銀行家で大金持ちのザロモン・ハイネの娘アマーリエ、彼女が3歳年下です。その下のテレーゼ、これが10歳も年下です。この二人に想いを寄せるんです。アマーリエは傲慢で冷たかった、という。テレーゼの方は少し優しくて、後にハイネが病気になった時にパリに見舞いに来てくれたりもします。その後、パリで36歳の時に結婚をします。マチルドと呼ばれる女性なんですが、大変美人ではあるんだけれども、我儘で金遣いが荒い、と。無教養でヒステリーであったと。この女性と、最後まで暮らします。

最後の病のことですが、ハイネは今の病名で言えば、どうも多発性硬化症という病気のようですね。脊髄に異変が生じまして、神経的なものとか、痺れとか、慢性頭痛とか、視覚障害、眼も悪くなります。

先ほど決闘の話をちょっといたしましたが、ゲッティンゲン大学時代でもしましたし、

43歳になっても些細な事から再び決闘をします。その時はピストルです。ハイネは空に向けて撃ったんですが、相手に撃たれて腰に怪我したりします。古典的な決闘沙汰を2回も起こしたという、そういう人です。大体私の持ち時間がきましたので、妻鳥先生お願いします。

♪ „ Aus Schwanengesang “  von H.Heine ♪ 「白鳥の歌」  ハインリヒ・ハイネ 

 ・Das Fischermädchen              ・漁師の娘

・Am Meer                    ・海辺にて

・Die Stadt                    ・都会

・Der Doppelgänger                ・影法師(分身)

・Ihr Bild                     ・彼女の姿

・Der Atlas                    ・アトラス

朗読   真鍋 ひろ子

          アルト  妻鳥 純子

          ピアノ  渡辺 正子

 いかがでしたでしょうか。

歌うのも、大変難しいんだ…・と思うんですけれども…・・

「難しいです!」(妻鳥)(笑い)

(妻鳥)最初の10曲だけでやろう、と思っていたのですが、どうも気になって。

「白鳥の歌」全然やっていなかったのですが、どうも気になって……

Leise fliehen meine Lider とか、Aufenthaltとかは歌ったことはあるのですが。

ハイネの曲は、やっぱり、大変気になって、急遽、大変なんだけれどもやってみようと思って。ピアノが大変でしょう。すごく怖ろしい…・・。また、これ男の人の歌なんですけれども、「Atlas」なんか歌うことは絶対にないんですが、Brigitte Fasbänder が歌っているのを聴いて、素晴らしいドイツの歌手なんですけれど、なんかちょっとやったほうが良いかなぁ~~と思い。暗譜しようと思ったんですが、怖くて。見て歌いました。あんなに歌っている、 An die Musik で間違えてしまって、済みません。失礼しました。

(真鍋)

前半10曲は暗唱ですが、さすがにこれは…・。

これはシューベルトリートの総決算、と言われています。今日歌われなかった前半の部分、レルシュタープの詩の部分は、先人から受け継いだ伝統的なリート創作技法で作曲されていますが、今演奏していただいたハイネの詩の部分は独自の新しい試みなんだそうです。これは(本を示して)「シューベルトのリート」村田千尋さんという人が書いた本なんですが、「音を切り詰めて、徹底して詩を追求した朗誦リートや、19世紀の印象派を予感させるようなピアノの扱いがあった」と言っています。お気づきになったかどうか…。時代を先取りした革新的な手法、新時代の扉を開く画期的な曲である、という風に評価をされております。そんなシューベルト、ハイネでした。

後で、「ローレライ」歌っていただけるんですよね。皆さん、ここにいらっしゃる方は、学校の音楽の時間で、(ローレライ)を習っていますよね,近藤朔風訳詩で。この人は東京音楽学校で学び、外語学校でも学んでいます。日本の近代化の初期に、ヨーロッパの歌を日本語に置き換えて紹介した人です。非常に格調が高い。以前に「菩提樹」を「冬の旅」の中で演奏していただいたことがありますが、その訳詞は「なじかはしらねど心侘びて」とそういう詞ですよね。多分覚えていらっしゃると思うんですが。

手元に「歌の本」というハイネの詩集、岩波文庫です、を持っています。それだと、井上正蔵さんという、都立大学にいらっしゃったハイネ研究の大家です。その人の訳では「なじかはしらねど心侘びて…・・」のところは、「どうしてこんなに悲しいのか、私にはわけがわからない」とこんな風に、「遠い昔の語り草、胸からいつも離れない。風は冷たく、暗くなり、静かに流れるライン河、沈む夕陽にあかあかと、山をいただく、照り映えて……」

(「歌の本、下」岩波文庫、井上正蔵訳、「帰郷」2番「かなしみに」)

そんな風な訳になっています。

(妻鳥)

あの~、一番最初の「なじかはしらねど、心侘びて…・」、あれ、私、クラーラ・シューマンの「Lorelei ローレライ」というのがございましてね、「Ich weiß nicht, was bedeuten-----」

どうしてこんなに悲しいの、という歌詞で、どこかで聞いたことがあるなぁ…・

クラーラという人はすごくて、ドイツ語なんですけれども、まともに、そのままハイネなんですね。…・・

(真鍋)歌っていただきましょう。

アンコール      ローレライ   ジルヒャー作曲 近藤朔風詩

次回は先ほど紹介がありましたが、クラーラ・シューマン「愛の魔法・すみれ」これを取り上げてくださいます。めったに機会がないと思います、

 少し先なんですが、2019年1月11日金曜日に場所が確保できています。

 それから、先ほどもちょっとだけ触れましたけれども、2019年7月26日(金)東京から山岸茂人さんという、名ピアニストをお迎えして妻鳥先生が、ローベルト・シューマンの「詩人の恋」を中心に演奏をしてくださいます。

ぜひ、これについてもご来場賜りますように、ご案内いたします。

ありがとうございました。           


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